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2日目
「おはよう」
「ああ……おはよう」
朝起きるといつものテーブルに湯気の立ったご飯とみそ汁が乗っていた。だから俺は一瞬、昨日の話が全部夢だったのじゃないかと錯覚する。けれどおはようと言った孝弘は、いつもなら俺のひどい寝癖を笑うのにそれがなくて、やっぱり昨日の話は本当だったのだなと理解した。
不自然なほど視線を合わせないまま孝弘が口を開く。
「俺はもう出るから」
「早いな」
「今日は不動産屋寄ってから帰るから遅くなる。ご飯はいらない」
「わかった」
その間も忙しなく支度をする孝弘を見ながら、少し味の濃いみそ汁を飲む。ほうれん草とかき卵。
「孝弘」
「……なに」
すでに出ようとしている背中に声をかけるとびくりと肩を震わせた。けれど靴を履いている孝弘は、振り向きはしなかった。
「俺もこの部屋出るから」
しばらく返答がなくて俺は待った。けれど孝弘は無言のまま玄関のドアノブに手をかける。そのまま何も言わずに出ていくのかと思っていると、
「わかった」
小さな声でそれだけ言って出て行った。
がちゃん、と扉の閉まる音が響く。俺は無言の部屋に間をもたせるためにテレビをつけて、朝のニュース番組にチャンネルを合わせた。やはりこの部屋に一人で残るのは耐えられそうにないな、と思った。
郊外にあるこのマンションから俺の会社までは電車で50分かかる。だから最初にこの部屋を見つけたとき、俺は乗り気ではなかった。
日当たりのいいリビングはそこそこ広くて、それ以外に部屋が二つあって二人住まいには申し分ない。すぐ近くにはコンビニもドラッグストアもあり少し歩けばスーパーもあるこのマンションは最高の物件だったけれど、俺の会社だけが遠かった。
孝弘の勤める広告代理店からは歩いて十分ほどで、だから孝弘が絶対にここがいいと推しに推してこのマンションに決まったのだ。結局俺は電車で一時間近くもかけて通勤することになったけれど、孝弘のわがままには慣れていたから案外あっさりと長い通勤時間も受け入れてしまった。
その代わり朝早くに出勤する俺のために孝弘が朝ご飯を作り、夜は俺が作る。それは自然と決まったことだった。
「いってらっしゃい」
俺が初めてこの部屋から会社へ行く朝のことだ。新婚みたいだな、なんていうから、じゃあ行ってきますのちゅうでもするかとからかった俺を「欧米か!」と怒った孝弘を思い出す。それも照れると怒りだすあいつのことをよく知っているから俺は笑って部屋を出たのだけれど。
「行ってきます」
いつも必ず聞こえたいってらっしゃいの声はない。俺はどうせいないのなら自分も不動産屋に寄ってから帰ろうと思いながら、この日初めて出勤時に自分の部屋の鍵を閉めた。
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