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最後の朝、そして始まりの日
空っぽになった部屋を見回しながら俺は一つ伸びをした。すっかり片付いたなあと思っていると、何もなくなったリビングに孝弘が出てきた。
「のんびりしてるな。もう終わったのか」
「おう。あとは、でかいものを業者に頼むだけだから何もない」
全て片付けてしまうと、パソコン用のコンパクトな机とオーディオと本棚、それから段ボール箱が二つだけだった。洗濯機と冷蔵庫は孝弘に譲った。最初は頑なにいらないと言っていたが、貰わないなら捨てると言えばしぶしぶ受け取った。
「こんなに広かったかな」
「そうみたいだな」
家具も何もなくなった部屋はあっさりとし過ぎてなんだか味気なかった。俺たちの住んでいた記憶も思い出も何もかも捨て去って、もう次の住人を待っている。俺が付けたコーヒーの染みも、家具を動かしたときの床の傷も、空々しいほどに他人行儀だった。
最初にこの部屋を見つけたとき、絶対ここがいいと言い張る孝弘をなだめて他にも何軒か物件を見て回った。俺としては会社からもほどほどに近いマンションがよかったが、この部屋が俺を呼んでいる、なんて訳のわからない説得の仕方でしょうがなく俺が折れた。
それでも二人で住んだこの部屋は居心地がよくて離れがたかったのだけれどここまで他人の顔をした部屋を見ると、まあいいかなんて思っている。
「懐かしいな。あれから四年も経つんだな」
孝弘の呟きに、この部屋に引っ越してから四年も経ったのか、と気付く。
孝弘は誕生日とか記念日とかをよく覚えているやつだった。そういうものに無頓着な俺はよくそれを忘れて怒らせた。だから新しい手帳を買うと必ず付き合い始めた日と孝弘の誕生日、それから自分の誕生日を書かされた。自分の誕生日すら忘れるってどんなんだよと困ったように笑われた。
もうその印も意味のないものだけれど。
ぼんやりしていた俺が意識を戻すと、孝弘が右手を差し出していた。
「長い間、ありがとう」
孝弘の顔を見て、ああこれが本当に最後なんだと思う。
「俺はわがままで、お前のこと怒ってばっかで、甘えてばっかで。ちょっと微妙な恋人だったかもしれないけど、俺は、」
泣くための映画なんてクソくらえだ、なんて言って頑なに泣いたりしなかった孝弘が言葉を詰まらせる。隣で同じ映画を見て絶対に泣いてしまう俺は、必死にこみあげてくるものを喉の奥に流し込んで耐えた。俺にはあんまり泣く資格はないと思うから。
「俺はお前が好きだったよ」
この部屋に決まって、入居の日。今と同じ空っぽの部屋で孝弘は今と同じように右手を差し出した。これからよろしく、と。日曜日の穏やかな日差しの中で笑って見せた孝弘の顔を俺は生涯、忘れることはないと思う。
「ありがとう」
同じように右手を差し出すと、俺は強くその手を握った。握り返されるその力に、こいつがこれからもずっと幸せでありますようにと、その短い間にこっそりと願った。
俺は誰もいない、まだ段ボール箱と梱包された荷物だけが置かれている、前よりは少し狭い部屋の窓を開けた。今日は陽が当たると暖かい。もう春だな、なんて思いながら窓枠に腕を乗せて街並を見下ろす。少なくともこの町のどこかに住んでいるんだろうと思う。よし、とわざと声を出してから荷解きを始めた。
隣に挨拶をしてから部屋に鍵をかけると周辺を散歩した。電車の窓から見ていたけれど、それとは違う角度から見る新鮮な風景。俺はその街並みをのんびりと歩いた。
きらきら光る川の水面に目を細めていると、足元をオレンジが追い抜いていった。転がるそれを拾い上げてから、追ってきた声に振り返る。
「すみません!ありがとうございます」
きっと君を忘れない。そして、新しい未来が待っている。
そんな予感を覚えながら、俺は拾ったオレンジを手渡した。
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