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この空を忘れない
景色がゆらゆらと揺れているのは、さっきしこたま飲んだビールのせいなのか、それとも実際に揺れているのかよくわからなかった。ただすごく気分はいいし、しがみついている何かはとても温かいしで、ともかく気持ちのいい夜だった。
「ああ、星が」
星がくっきりと輝いていた。雨の匂いがするから、いつもより空気が澄んでいるのかもしれない。あの一番明るい星が何かは分からないけれど、そこに焦点を当てようとするとその一番明るい星は上下に揺れた。
「え、なに?」
誰かの声が、すぐ近くから聞こえた。よく目を凝らすとすぐ横に顔があって、その誰かが喋っているのだ。なんでこんなに近いんだろう、距離が。ああ、そうか今背負われているのか。
「重たいのに大変ですね。精が出ますねえ」
「呑気だなあ」
「失礼な!早く酒を持ってこい!」
「まだ飲むつもりか」
飲むに決まってるじゃないか。なんでこいつにそんなこと言われなきゃいけないんだ。というかこいつ誰だ。
「あんた誰」
「え、さっき自己紹介したけど」
「へー全然覚えてないや」
「ああそう……」
大学に入って初めてのコンパ。初めて飲んだビールは苦くて、でもなんだかおいしかった。未成年だなんてことも都合よく忘れて勧められるままにグラスを空けたのだが。
「そっか、もしかして俺って酔ってる感じか」
「もしかしなくても」
「俺って酔うとこんな感じなんだなー」
はいはい、と軽くいなされてちょっとむっとする。なんだこいつ、初対面のはずなんだけど。思い出した、確か斜め向かいに座っていた気がする。
「あんたは、えーと」
「久保です。久保正文」
「久保は飲んでないの」
「あんまり知らない人と飲むの好きじゃないから、適度な量で」
「ふうん」
なんだか慣れているらしい言い方に気のない返事をする。確かに、隣にいた女の子とかにも上手にお酌してたな。
「さては女好きか」
「え?なに、俺のこと?」
でも他の男の先輩たちのことも上手に持ち上げてたから単なる八方美人かもしれない。それにしても俺はよくこいつのこと見てるな。なんでだっけ。
「ええと、加藤の家はこっちでいいの?」
「うん、そうそう。そうなんですよ」
送ってくれるのか、いいやつだな。
そうだ、なんでだか俺は最初からこいつのことを見ていたんだ。少し遅れてきて、ドア付近に座った。ビールを頼んで、枝豆を食べて、後から来たから一人だけ自己紹介させられて。なんて言ってたかは覚えてないけど。それにしてもよく見てた。
「星がきれいだなあ」
久保が、呟いた。
確かに星がきれいだ。
ああそうか、俺はこいつに一目惚れしたのか。
「俺、久保のこと好きだわー」
「は、え?」
見上げればぽつぽつと星が瞬いている。アルコールが程よく回っている。久保が水たまりを踏んだ。
今日のコンパで出会った人も、話したことも、それから今話したことも何もかも明日には忘れているだろうけど。どうしてかこの凡庸できれいな星空は忘れない、そんな気がした。
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