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外は、しとしとと雨が降っている。苔の生す梅雨の時期になった。外は、今日もしとしとと雨で、いろいろなものに、カビが湧いてきそうである。雨は止む気配がない。上着を着替えようと、箪笥を開けた。ふと下段の、着物の入っているところが隙間が開いている。気になって、その段を開けたら、着物を包んでいる干し紙の上に苔むした渦巻きの固形物が転がっていた。
いや…これはなんだろう、苔むした蝸牛ではないか。どこから入り込んだのか、着物の干し紙の上に這った後があるようにも思う。かたつむりにも苔むしることがあるんだなと、驚いた。庭は、日本庭園風になっている。亡くなった祖父の、趣味である。そこには沢山の生き物がいる。蝸牛は、生きている気配がなかった。甲羅がきらきら螺鈿のように輝いている。やっぱり、アンモナイトではないか。よく見ると、泥もついている。家族の誰かが、庭で見つけて、こんなところに置いたのか。
綺麗だった。
アンモナイトをしばらく触っていたら、ぱかんと音がして、甲羅が真っ二つに裂けて、壊れてしまった。そこから、砂金のようなものが、さらさらと次々と溢れてきて、零れ落ちて、畳の上に散った。
美しかった。砂金は、梅雨の冷たいすき間風が吹き飛ばしてしまい、また、座敷に、ざあああああ…という雨の音が充満する。
は…と我に返った。さきほどのアンモナイトは影も形もない。まるで夢を見ているかのようであった。いや…夢だったのだろうか。私は、起きながら幻を見ているのか。
その夜であった。
不思議な夢を見た。自分は病院のベッドで寝ているのであった。壁にかかった時計は正午過ぎを指し、コチコチと怖いくらい静かな病室で時を刻み、何人か看護婦をつれた眼鏡の恐ろしい医師が部屋にやってきた。そして、虫眼鏡で、私の顔を覗き込むように診察して、貴女は、もう助からない、けれど、死にもしない、明日、世界が終わってはじまる、と謎めいた言葉を残し、私を残して去ってゆくのであった。窓の外からは、何本かの剥げかかった松の木と、穏やかな海が見えて、遠くのほうまで、綺羅綺羅とみなもが輝いているのであった。なぜか、戦前の匂いがしたと思った。部屋にはほかの患者もいたが、みな包帯姿で、死んだように眠っているのであった。部屋にも廊下ぬも麻酔の匂いとも、薬品の匂いが充満していて、窓の外はアゲハ蝶が舞うように飛んでいる。合歓の木が病室からすぐのところに見えて、甘い香りが漂ってくる。不安げに、だけども穏やかな気持ちでいると、やがて、母親が迎えにくるのであった。
真昼の事であった。
母親は、私を連れて、徒歩で帰るのであった。道は白けていて、むわっとした暑い空気が、病院を出た私を包んだ。ひたすら塀のある通りを通って帰る。塀の中には屋敷があったり古い大きな木が生い茂ってしていて、道の対側も壁で覆われ、側溝には昨日雨でも降ったのか、豊かな水が流れている。
空には入道雲がもくもくと湧いていた。人と、すれ違わない。人が息絶えてしまっているかのようだった。ふいに、病院の、包帯だらけの病人たちを思い出す。彼らの死臭みたいなものも思い出した。
甘い匂いが腐ったような、合歓の木の匂いにも似ている、それでいて、気が遠くなるような匂い。車が横を何台か走っていったが、みな、古い写真にでてくるような旧式の車体なのだった。
もうすぐ、お父さんが帰ってくるわ
ああそうだ。父親は、戦争に取られていたが、なんとか無事に帰ってきて、街の方で働いているのだ。夕暮れまで、見覚えのない古い家でぼんやりしていると、カンカン帽とマントコートを羽織った父親が帰ってきた。玄関に、灯りが点る。どこからともなく、蛍が飛んできて、表式にぴたりと、止まった。
ざっと、雨が降ってきた。夕立だ。家の前の塀の内側にある竹林が、夕立で煙るようになって、揺れている。それをじっと眺めているうちに、ぱちん、となにか、爪を切るような音がして、私は、はっと目が覚めた。
幻覚と、幻想と、夢の中を彷徨っている体験だった。私は、アンモナイトの妄想をしたあと、病院の夢を見たのか。本物の家の中は、まだ梅雨の匂いが充満していて、母親は、わたしのいた隣の部屋で、膝の上の裁縫の手を休めて、麦茶を飲みながら、ちゃぶ台の上で古いアルバムを開いて、懐かしそうに、亡くなった祖父や祖母の写真を眺めていたのだった。
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