悪徳

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悪徳の家 急斜面のきつい坂を上る。 塀と緑に囲われた影の多い坂は、上っていくうちに、闇に包まれていく。 みん、と、一瞬、蝉の音がやんで、汗だくになってあごに伝う汗をぬぐった。 坂を上りきるとさらに道は細くなり、農道と、味噌蔵のひしめき合う、小さな路地に幾つか家がまばらに建っている。 歩いていくと、綺羅綺羅と太陽の日差しが路面に陽だまりを作り、陰や光の中を揺らめいて妖しく遊んでいる。家の塀は真っ黒の陰を作り、白い道を見た後、塀の陰を見ると、チカチカと目の中に星が飛び、眩暈がした。 どの家もまるで古めかしく大きな日本家屋で、そのうちの一軒が紫陽花と木々に囲まれた望月の、その家であった。 鬼のお面を壁に飾ってあったり、幽霊画を部屋に飾ってある家である。 家は、やはり木々に隠れるようにひっそりと建っていて、家の中は薄暗い。 家に来る?と言われて、僕はつい、頷いていたから、今、坂の半ばまで来ている。 夏だから、啓一の家に来た。 彼の家は、夏に似合う。 望月家は近所の人たちからは嫌われていた。 不気味な、お化けの本や、殺人にまつわる書物、インモラルなものばかり崇高する家に育った望月啓一は、反面、優等生で、なんでも知っていて、学校では人気者だった。 でも、大人からは、啓一の家は嫌われていた。そういう趣味が。 黒いものの中にも、輝いているものがあるのではないか? 僕は、いつか、彼の家に、蝶を埋めてきた。 叔父に取ってもらったものである。 暑い夏の日の事であった。“ “愚か者に、幸いあれ。 どれだけ愚か者でもいい。 愚か者こそが、世の中を救う“ 僕は、ぎゅっと目をつむって、思いっきり拳を握り締めた… 殺してしまった。綺麗な、青い、ルリタテハであった。 そのままじっとしていた。君は、暗い目をしている。啓一に言われた言葉だ。 殺すのではなかった。綺麗だったのに。 僕はいつもそうだ。 涙がでてきた。 失敗ばかり、愚かしい事ばかりしてしまう。 ティッシュを燃やして、公園に捨ててきたり、虫や、物を壊す瞬間。 自分が堕ちていく瞬間が、たまらなく快感で、刹那の瞬間、自分が輝いて見えるのだ。 暗く、闇の色に。 誰にも言えない、趣味だった。 啓一が、麦茶をお盆に載せてやってきた。 「今日は暑いだろう、君」 「ありがとう、こんな僕に」 「なに、いいんだ。僕も退屈している」 暗い、怖い目をしている。啓一。迫力があるというか、なんとなく、裏があるようにも見える。なにか、とんでもなく、まずそうなことをしていそうな顔を。 「…君は、鬱屈としている。なにか、足りない感じ、満ち足りない気持ちでいっぱいなんだろう、自分になにもないから…だから、僕の家に来た。」 部屋の中には、怖い言葉の描かれた大きな書物や、般若の面や、憤怒尊のお面や、江戸時代の幽霊画が飾られ、幽霊画の中で、幽霊が雨に打たれて迷惑そうにしている。 「うん…なにをしていいか分からないんだ。僕は、駄目人間で、いつも叱られるんだ、お父さんとお母さんに」 「僕の家が好きかい?」 「うん…」 「道を、踏み外さないように、気を付けたまえ、 これを見るかい?」 見せてくれたのは、瓶に入った、なにかの臓器のようなものであった。 なにか、皺が入っていて、脳みそのように見えるのは気のせいだろうか? 「これはなんだい?」 死んでいるんだろう?しかし、おかしかった、中身がひくりと、動いたような気がしたのだ。 内緒だよ?と、啓一は囁いて、それをさっと隠した。 いまのはなんだろう。 こういうのが、地下室に一杯あってね。僕も、家に遊びに来てくれる友達なんてめったにいないから、また遊びにおいでよ、こういうものがいっぱいあるから。 家を出たのは、三時半ころだった。 ざっと、夕立があがって、空の空気は澄んでいた。入道雲が、黄色に輝いて遠くの空に浮かんでいる。 なにか、悪い悪夢でも見たかのような気持ちになった。 そのまま、暑苦しい夏のなかをゆらゆら歩きながら、啓一はきっとこんな気持ちにはならないと、何度も反芻していた自分がいた。 あの、庭に埋めてきた蝶を、掘り返す骨ばった指の先に見える微笑みが、悪魔のように、歪んでいるのを、盲目した。あの蝶は、あの、動く脳みその破片の入った小瓶と同じ瓶の中で、ひくひくと動いているのを、妄想して、吐き気がするのと同時に、もっと見て居たい、と、見上げると、入道雲が笑っているような気がした。 完結
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