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空が、抜けるほど、青かった。
手には、樫の木で作った櫛が一つ。
櫻の木の下で、彼は私に渡した。
花弁がはらはらと舞っていた。
家は、木々の生い茂る、暗い通り道に面していた。
私は子供の頃から病だった。
脳に水がたまる病で、人によっては頭が他の普通の人たちより大きくなることもあるというが、私はそこまでではなかった。ただ、水による脳の圧迫で、手足に痺れがあり、ベッドから起き上がることが億劫であった。
私は自分の横たわるベッドの横で、林檎を剥く兄を見ていた。
兄は、佳人であった。美しい兄。
黒髪のさらさらした髪を坊ちゃん風にしていて、釣り目の、冷ややかな眼差し、でも、どこか優しげだった。
私は悪魔のようなものが好きであった。
人が残酷に殺される映画を見て、ふふふと笑う妖女であった。
シンデレラが、王子様を毒林檎で殺す童話を描いたりする少女であった。
イラストを描くと、登場人物に血を垂らすのが好きだった。
血が、欲しかった。
あの家は、風紀が悪いのよ、と近所で噂されているのは知っていた。
亡くなった父の部屋には般若のお面が飾ってあって、悪魔を褒める本や、江戸時代の処刑に関する本、寺山修司の本や江戸川乱歩の本が、本棚に並んでいた。
母は、黙って、亡くなった父の部屋を掃除していて、桜の舞う春になると、庭で、苦しそうな顔で桜の描かれた着物で舞うのであった。母は、父が死んでから、少しおかしくなっていた。仏壇のある部屋でぶつぶつ父と会話するようなそぶりを見せたり、箒の毛をぶちぶちぬいて、トイレに流していたり、居間で、放心したままご飯を作らないこともあった。
私は病気のせいと、家の風紀のせいで、暗かった。
水頭症のせいで、学校にはなかなか通えず、同級生の顔も名前も、ほとんど知らなかった。
ただ、家庭教師には、すこし嫌ないたずらをされていた。
兄は、そのことを知っていて、家庭教師のバッグに、イモリの干物を忍ばせて、驚かせたりしていた。
真矢は、少し甘すぎるんだよ。
兄の口癖だった。
兄は、完璧な魔物であった。
人を殺したこともあると、嘯くのであった。
本当に?と聞くと、僕は嫌なやつだよ、と、笑って言うのであった。
微かに微笑んでいたけれど怖い事を云いながら、まるで優しい笑みを浮かべていて、質問の意味や内容と乖離していた。
兄は、そういう、優しい表情を浮かべながら、人を殺すのだろう。
嘘か本当か分からなかったけれど、人間なんてみんな滅んでしまえばいいんだ、地球に、有害だから、と時に痛々しいことをよく言うのは、時に辛かった。
純粋なのだろう。純粋が故、痛々しく見えた。
人を許せないのもそして、殺してしまうのも純粋だからそこまでしてしまうのだろう。
若さゆえの過ちを繰り返して、兄の腕は、血まみれなのだ。
それにくらべ、私には、毒針があって、そんな兄が滅んでも、なんの涙も流さないかもしれないと、かすかな笑みを浮かべて、兄の残酷な物語を聞くのであった。
どうなってもよかった。自分以外は。
兄も、父も、母も、私の手足であった。
いっそ皆早く死んでほしいくらいであった。
そんなときの自分は、とても美しく感じた。
傲慢で、不遜で、高潔な女王。
父親のいない、小さな家の、小さな女王であったのだ。
しかし、病が進行していくうちに、弱気になることが多くなってきていた。
血まみれなものが好きである一方で、優し気なものが好きになることが多くなってきていた。
ベッドに伏せたまま、高校生活最後の3月の終わりを迎えていた。
庭の桜が綺麗だよ、と兄が、手を引いて、桜の下まで誘ってくれた。
私は麻痺のある足をよたよたと頼りなく、兄は何故か無茶をさせるが、なにかあるな、と無理をして手の惹かれるがまま、桜の木の下に立った。
櫻は黙ったまま、はらはらと花弁を散らしていた。
家を覆うような木々から、光の筋が差し込んで、桜の木のあたりだけは、昼間の日差しがすっかり差込み、それは幻想的な美しい光景だった。
これを卒業記念にあげるね、と、兄は言って、樫の木で作った木製の櫛をくれた。
櫻の花が彫られた美しい工芸品であった。
ありがとうと受け取ると兄は本当の意味で嬉しそうに微笑んでいた。
料亭のアルバイトのお金で買ってくれたのだろう。
そして、かすめるように、キスをしてきた。
いけないことだと分かっていたが私はあまり驚かなかった。
私も——————、兄が好き、だったからだ。
美しい兄。家族には優しい兄。
父は死に母は気狂いの病で、風紀は悪いと世間には嫌われて、この重苦しい家の中で、兄は、唯一の光みたいなものだったからだ。
結婚しないでね、と耳元で囁かれて、うなづく私がいた。
櫻は、はらはらと花弁を落とし、私は突然、うっと、呻いた。
破瓜のような、経血が、スカートの裾から一筋、垂れていた。
生理が来ていた。
不思議な事ではなかった。
兄の、美声を聞くと、よく、生理が来ていたからだ。
兄は、驚いて、ハンカチを取り出している。
櫻の木の下に、ぽたぽたと血が零れているのを見て、私は、なんて美しい光景なのだろう、と、どこか気が遠くなりながら、兄のハンカチを持った骨ばった手がふくらはぎに触れるのを見ていた。
完結
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