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会社の最寄り駅から徒歩で十五分程歩いた先の、ビルの一階に紗子たちは来ていた。このビルには紗子の会社のほかにいくつもの会社が入っていて、その一階にあるコーヒーショップは一般にも開放しているからそこそこ人が居た。
「さっきお茶したばっかりだけど、雰囲気楽しんでみる?」
そう提案してみると、クリスが、良いんですか!? と喜んだので、二人分のコーヒーを頼み、マグカップを持ってテーブルに向かい合わせで腰掛けた。
ショッピング帰りと思しき女性客もいたりするが、休日出勤なのか、奥のテーブルではノートパソコンを見ながら打ち合わせが行われていたし、コーヒーを味わえているのか分からない様子で資料をにらんでいる人も居る。先刻まで饒舌だったクリスもなんだか小声になる。
「すごい…。本当に会社だ……」
「だからそう言ったじゃない」
首を竦めてきょろきょろするクリスに苦笑が漏れる。こういうところは学生だな、と思った。
「就職活動で会社訪問とかするようになると、こういうところも慣れてくわよ。クリスもきっと……」
「紗子じゃん」
話している途中で不意に呼ばれて誰かと思った。ジャケットこそ羽織っていないが、ネクタイを締めた和久田が事務ファイルを持って現れた。
「なにその恰好。今日お前、休みだろ。わざわざ此処まで何しに来たの」
会いに来て欲しいと思った時は会いに来ないくせに、こういう時に会うなんてタイミングが悪い。
「あー、例の新宿のお店のバイトの子の社会見学……」
「社会見学?」
そう言って和久田がクリスを見る。クリスは礼儀正しく椅子から立ち上がって和久田に会釈をした。
「紗子さんの会社の方ですか? 僕、バイト先で紗子さんをよくお迎えする者です。今日は紗子さんに付き合っていただいて、会社の雰囲気を味わいに来ました」
クリスの自己紹介に和久田が目を瞬かせる。
「なに。じゃあ君はうちの会社が希望なの?」
「はい! …と言いますか、紗子さんの後輩になりたくて」
は? と和久田は不審げに眉を寄せた。和久田の様子に気付くことなく、クリスが続ける。
「紗子さんの下で働いて、いつか紗子さんを支えられる男になりたいんです」
曇ることのない目でそう言われて、和久田はますます眉間に皴を寄せた。
「どういうことだよ、松下」
険しい顔になった和久田相手に口ごもる。まさか和久田に、好意を持ってもらってるクリスとデートしてました、とは言いにくい。紗子が何も言えないでいると、クリスがはきはきと、
「俺、紗子さんの恋人に立候補したくて」
と言う。厳しい顔になった和久田に対して、紗子は視線を合わせられなかった。
*
会社を出て、駅でクリスと別れる。クリスは終始機嫌が良かったが、紗子は月曜日に向けて悩みが出来てしまった。
あの後、和久田は上司に呼ばれて職場に戻った。クリスのことを不審がっていたから、きっと月曜日に顔を合わせたら問い詰められるだろう。なんて説明しようか。ただ、和久田と付き合ってもいないのに弁解しなければならないのかと、それはちょっと疑問だった。
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