その気になんて

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紗子は新宿駅で降りた。『ア・コード』に行こうと思ったのだ。一人だけど、今ではシェフともクリスとも話せるようになっていたし、お酒を飲まなければ大丈夫だと思った。 木の扉を引いて店内に入る。いらっしゃいませ、という山脇のやわらかな声にクリスが気付いて紗子を見た。 「あ、紗子さん」 「こんばんは。今日は一人なんだけど良いかな」 確認すると、勿論です、と満面の笑みで迎えてくれる。テーブル席は埋まっているし今日は一人なのでカウンターに座らせてもらった。 クリスがお冷を持ってくる。その右手の中指には紗子が買ってあげたリングが収まっていた。使ってもらえているのが嬉しくて、にこりと微笑む。 「早速使ってるわね」 「はい! もうあれから風呂と寝るとき以外はずっとしてます」 そんなに気に入ってもらえたなら何よりだ。食事を注文してカウンターの上で手を組んだ。 ……実は、どきどきしている。浜嶋の誘いでもなく自分の意志で此処に来て、クリスに対してどう振舞うのが、和久田と恋を成就させた自分に相応しいのか……。和久田と想いを交わしているから、クリスの好意は受け取れない。だけど、デートに誘われたら行けると思う。でもそれって、クリスに対して中途半端なのではないかなと思うのだ。 それでも、和久田と話してぎすぎすした気持ちになったので、クリスと話をして朗らかな気持ちになりたかった。それは嘘じゃない。クリスは紗子に安心感とやさしさをくれる。それは紗子にとって大事なことだった。 「クリスの指輪、紗子ちゃんが贈ったんだってね」 山脇がやわらかい声で言う。 「あ、そうなんです。土曜日に買い物に行ったら、ちょうど入ったショップで似合いそうなのがあったので、記念にと思って」 紗子の言葉に山脇は微笑むと、でもあまり思わせぶりなことはしちゃ駄目だよ、と紗子に釘を刺した。 「紗子ちゃんがクリスの気持ちに応えられるなら良いけど、君は浜嶋くんのことが好きだっただろ?」 紗子は山脇の言葉に視線を俯けた。……思わせぶりなことに、なるのかな。単に、一緒に居て楽しかったから記念にって思っただけなんだけど。 「それでもだね。恋をする側からしたら、相手の一挙手一投足にあれこれ理由を考えるから」 山脇は口許に笑みを絶やさない。浜嶋を想っていた頃を思い出す。確かに浜嶋のひと言にさえ、喜び、悲しみ、切なく泣いていた。あの気持ちをクリスに味わわせるのは申し訳ない。紗子は山脇に向けて、はい、と返事をして出されたお冷に口を付けた。
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