その気になんて

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* 和久田のことを考えていたら疲れてしまった。こういう時は美味しいご飯が食べたい。紗子はまた『ア・コード』に足を向けた。 相変わらず店内は賑わっているようだった。店の入り口の木の扉に手を掛けたところで、店の入っている建物と、隣のビルとの間の路地から何か人が言い合っているような声が聞こえた。 ……こんなところで喧嘩? そう思ってそっと路地を覗いてみると、其処には白いエプロンをしたクリスとスーツ姿の和久田が居た。 (え……っ。何話してるの……) 組み合わせが組み合わせだけに、紗子は手に冷や汗を握ってしまう。耳を澄ませると、都会の喧騒の中に二人の声が聞こえてきた。 「だからって人の恋人誘うのはどうかと思うけど?」 これは和久田の声。そしてクリスも負けていない。 「でも、お誘いしたら頷いてくれました。浜嶋さんのことお好きなのかなって気が付いていましたけど、紗子さんが初めておひとりで店に来られたので、チャンスなのかなって思ったんです。和久田さんのことは紗子さんの口からは聞きませんでした」 クリスにさえ浜嶋に想いを寄せていたことを知られていた。顔から火が吹き出しそうな恥ずかしさだった。 「そうだ。浜嶋主任のことは松下の中で片付いてる。今は俺の恋人だ」 「それ、どうやって証明されるんですか? 僕は紗子さんに無理強いしたわけじゃありません。それなのにデートに応じてくださいましたし、一緒にいる間、紗子さんは和久田さんのことをひと言も口に出しませんでした。和久田さんの勘違いってこと、ないですか?」 「勘違いってなんだよ」 事実を述べるクリスと苛立っている和久田。語尾が低くなって、喧嘩になりそうだった。急いで二人の間に割って入る。 「ちょ……、二人ともこんなところで何やってるの。クリス、お店混んできてるわよ。和久田くんも、年下に向かって何してるの」 仲裁に入った紗子を、しかし二人とも受け付けなかった。 「大事な話してるんだよ」 「僕も、紗子さんが嫌だと言うまで譲れません」 睨みあう二人の間でおろおろしていた紗子の手を、和久田がぐっと握る。はっと気付いた紗子は、握られた手と、クリスを見比べた。クリスが手を握られたままの紗子に視線を移して、ふ、と弱く微笑む。 「……そうやって紗子さんに触れていいのは、今は和久田さんなんですね。でも、僕、諦めませんから。何時かきっと和久田さんよりいい男になって、紗子さんに選んでもらいます」 そう言って頭を下げると、クリスは一瞬紗子に近づいて耳元で何か英語を囁くと、何事もなかったように裏口から店に戻って行った。二人は残された路地でお互いを見る。全く年下相手に何をムキになっているんだか。
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