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クリス
新宿のいつものお店。今日は以前のように遅くなっていないので店内で食事を摂っている人もいる。紗子たちも食事を頼んだ。浜嶋は生ハムと白トリュフのパスタ、紗子は今日のおすすめだという、温泉卵と豚のほお肉のカルボナーラ風パスタだ。
今日は金曜日の食事時と言うことでテーブル席が埋まっており、紗子たちはカウンターに腰掛けている。目の前ではシェフたちが器用な手さばきで次々と食事を作り上げていた。
紗子が今日のおすすめパスタを頬張ると、豚のほお肉のうまみがじわっと口の中に広がって、たまらない幸福感を生み出した。じっくり咀嚼し、味わってから飲み込む。
「どう? 今日のパスタは」
聞いてきたのはシェフの一人、山脇だった。紗子が食べたパスタを作ったのは山脇シェフだった。
「はい、とても美味しいです。豚肉の旨味が堪らないです…。温泉卵と絡めても美味しいし、何時も美味しいご飯をありがとうございます」
紗子の言葉に山脇は微笑った。
「それなら此処に連れてくる浜嶋くんにもお礼を言わなきゃ。浜嶋くんも何時も贔屓にしてくれてありがとうね」
「俺も此処の味は好きだからな」
山脇はふふ、と優美な笑みを浮かべて、浜嶋くんも此処で働いてくれればいいのに、と言った。浜嶋は趣味で料理を独学で学んで、腕前はシェフ並みだとのことだけど、浜嶋が転職してしまったら紗子は困る。
「山脇さん、駄目です駄目です。主任にはうちの会社に居てもらわないと……」
紗子の言葉に笑ったのは浜嶋だった。
「確かに、将来有望な部下が成長する姿を見られなくなるのは寂しいからな」
えっ、それ私のことかな? 仕事が遅い紗子のことを、リップサービスでもそう言ってもらえるとやる気になる。紗子はえへへ、と笑って、残業ばっかりですけどね、とへりくだった。
「求められることに対して完璧に応えようとするだろう、お前は。それじゃあ、何時か身体か心が悲鳴を上げる。もうちょっと相談してくれても良いんだぞ」
上司らしい言葉に山脇が微笑む。紗子は恥ずかしくて俯いた。
浜嶋に一人前だと思ってもらいたくて、早く成長しなければと思っていたし、仕事ももっと出来るようになったら、浜嶋に褒めてもらえるような気がしていた。浜嶋に認めて欲しい。それは公私ともにのことだった。でもそれは婚約者の居る浜嶋には望めないことだし、紗子も本気で求めてはいけないことは分かっている。分かっているけど、理性と気持ちは上手く両輪で回らないことが多くて、だから浜嶋に惹かれてしまうのも仕方なかったのだ。
紗子の胸に燻(くすぶ)っている浜嶋への想いはそう簡単には消えない。二年間、毎日想い続けてきたのだ。
「紗子さん、お水です」
不意にテーブルにミネラルウォーターが届けられた。見上げるとこの店の給仕アルバイトのクリスが紗子の為に水を持ってきてくれていた。
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