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第三章 黄金の鷹-2
ティティスの従姉妹だという未亡人が、幼い子供たちを連れてやって来たのは、それから一週間ほど経った後だった。
町で貧しい暮らしをしていたというのは確からしい。最初に会った時のティティス以上に擦り切れたぼろを着て、荷物は小さな籠に押し込んだ衣類や小間物と幾つかの壷だけ。それらを痩せこけたロバの背に乗せて、彼女は沼地のほとりにやって来た。
「こちらがカイエト、あたしの従姉妹よ。子供たちはレキとスィト」
「こんにちは!」
「はじめまちて」
一つか二つしか年が違わないように見える幼い兄妹は、母の服の裾をつかんだまま元気いっぱいに挨拶した。シェヘブカイは、思わず顔をほころばせ、腰をかがめて子供たちに視線の高さを合わせた。
「こんにちは。僕はシェヘブカイ、よろしくね。」
「ごめんなさいね、急に押しかけたりして…」
子供たちの年からすればまだそれほど老いているとも思えないのに、生活苦のせいか、カイエトは、母のイティほどの年齢にも見えた。痩せた腕と、白髪交じりの髪のせいかもしれない。
彼女はおどおどと周囲を見回し、畑に目を留めた。
「ここが、あなたたちの畑なの?」
「うちの、っていうよりシェヘブカイの畑ね。今年から作り始めたの」
「とてもそうは見えないわ。手入れが行き届いてて、芽もしっかり出ているし…」
ティティスは、意味ありげに笑った。
「それ、"大ワニ様"のご加護らしいわよ」
「大ワニ様?」
「むかし沼地に住んでた、白い大鰐よ。シェヘブカイが連れ戻してきたの。ちゃんと祠もあるのよ。あとで案内するわ。ね、シェヘブカイ」
「ああ、いいよ。でも、まず住む所だよ」
そう言って、彼は畑の向こうに建てている最中の小屋に母子を案内した。そこは水はけのよい土手の奥にあって、シェヘブカイの家よりは水辺から離れていた。
「まだ作りかけなんだ、思ったより早く着いたから。でも、とりあえず台所と屋根はある。あとで部屋を建て増すよ」
「まあ、こんな立派な家」
カイエトは目を丸くし、子供たちは大喜びだ。
「ひろーい! すごーい」
「あたし自分の部屋ほしい!」
「あーずるい、ぼくも」
「こら、あんたたち。…ごめんなさいね、町では借り部屋住まいで、三人で部屋一つだったものだから」
「いいですよ、ここは誰も住んでないんだから」
シェヘブカイは、笑って手を振った。「それに、家を建てるのは慣れてるから」
「でも、水を汲むには少し遠くない?」
と、ティティス。
「ああ、今から水路を引くから大丈夫。それに、あんまり水際だと浸水するかもしれない」
「そうなの?」
「うん、土の色で分かるよ。川の水位は、どこまで上がるか毎年違うだろ? 黒っぽいところは、何年か前に、そこまで水が来たことがあるしるしなんだ。水位の高い年があったら浸水してしまう。」
「ふーん、なるほどね」
少女は、納得したような顔をした。「それじゃ家のことは問題ないわね。あとは…」
ティティスがカイエトとこまごました話をしながら今後の生活を話し合っている間に、シェヘブカイは、幼い兄妹を連れて水場を案内することにした。兄のレキはさっそく畑の縁に生えていた草を一本折りとって、むちのように振り回しながら遊んでいる。妹のスィトは、シェヘブカイの指を握って、しきりと辺りを見回していた。
「この先が沼地だよ。今は水はあんまりないけど、川の水位が上がる季節には深くなるから気をつけて。あと、ワニがたくさんいる」
「えー、ワニ? それって悪いやつなんでしょ」
「食べられちゃうよ、こわい」
「心配しないでいいよ、この辺りの鰐は人は襲わないからね。それに、これから会いに行くのは、人間を食べたりしない良い鰐だよ。」
そう言って、シェヘブカイは行く手の祠をさした。白い漆喰で塗り固められた祠は、緑の中に白く輝いて見える。ここのところ留守にしていることの多い祠の主も、今日は中にいるはずだ。新しい住人が来るからと、出かけないよう頼んでおいたからだ。
中庭に入ると、スィトが真っ先に花の香りに気づいた。
「いいにおいがする! お花だ」
シェヘブカイの指を離して駆け出したかと思うと、茂みの前で足を止めた。
「何かあったの?」
兄のレキも続く。
「…何かいる」
幼い少女は、茂みの中に目を凝らして不思議そうな顔をする。「…なんだろう、よく見えないや」
「ああ、それがここの主様だよ。そこがお気に入りの場所なんだ」
緑の茂みが揺れて、眠っていた祠の主が目を開いて起き上がった。
「紹介するよ。今日からお隣さんになったレキとスィト。よろしく」
レキは不思議そうな顔をしているだけだが、スィトは、目が合った瞬間、あわててシェヘブカイの後ろに素早く隠れた。用心深そうに真っ白な青年を見上げている。祠の主は、ひとつあくびをして金色の眸で子供たちを見比べると、口元にうっすら笑みを浮かべた。
「よろしく、な。」
それだけ言うと、元通り茂みの中に寝そべってしまう。いったん眠ってしまうと、叩き起こしでもしない限り目を覚ましそうにない。シェヘブカイは、子供たちを促してその場を離れた。
「ねえ、誰と話してたの?」
レキは不思議そうな顔でシェヘブカイを見上げる。「何も見えなかったよ。スィトは見えた?」
「うん…、でも、真っ白な何かしか分からなかったの。ぼんやりしてた」
シェヘブカイは、笑って二人の頭を撫でた。
「そのうち見えるようになるかもしれないね。人によって見え方が違うらしいけどね」
「あれは、かみさまなの?」
「そうだと思えば、神様になる。僕らを守ってくれるんだ。だから、お昼寝の邪魔はしないようにね。」
「はーい」
子供たちは素直に頷いたが、すぐさま前庭の池の魚に気づいて歓声を上げながら走り出した。
やれやれ、とシェヘブカイはため息をつく。これは、しばらくは祠の主も、落ち着いて眠れまい。
ただ、それでも少し嬉しかった。レニセネブやティティス以外の、よそから来た人に祠の主を紹介できたことが。――彼らが、祠の主を認めてくれたことが。
子供たちを追って立ち去りかけたとき、ふといま自分自身の言った言葉に気がついて、シェヘブカイは足を止めた。
"そうだと思えば、神様になる。"
今まで、はっきり意識したことも、疑問に思ったこともなかった。彼が何なのか、どうして今の姿なのか、――自分が、どう認識して何をしようとしていたのかを。
人でも、獣でもなく、かつては祠に祀られた存在であり、災いとも悪霊とも呼ばれたもの。
寂しげな姿を見て、ただ、居場所を与えようとした。ここに居て欲しいと願った。けれどそれは、去りかけていた、この土地のかつての守り神を蘇らせ、呼び戻す行為に等しかったのだ。
だからあの時、アメンティは言ったのか。「信じてくれるか」と。
人間に信じて、祈ってもらえなければ消えてしまうから。
"だから、信用しようと思ったんだ。"
信じようと決めたときから、彼は"悪霊"ではなく"良き霊"となった。右眼と左眼は、ともに同じものの一面であり、良きものと悪きものは裏表なのだ。どちらの存在であるべきかを決めたのは、シェヘブカイ自身だった。そうだったのだ。
「…緑の館の主」
反応するように、茂みの中にあった白い身体が身じろぎする。
言葉の響きを確かめるように、シェヘブカイはもう一度、繰り返した。
「<緑の館の主>。いつでもここに戻ってこられるよう、そう呼ぶよ。水に棲むもの、沼地の偉大なるもの、穀物を実らせるもの。…神官みたいにはいかないんだ。うまい言葉とか、綺麗な言い方とか、形式ばったものは何も分からないけど、…さ」
彼は真面目な口調で、精一杯に礼儀正しく、こう言った。
「あなたに願う、<緑の館の主>、この地の守り主。どうか、あれら祈る者たちを守ってやって欲しい」
薄く眸を開くと、彼は、小さくその言葉に頷いた。
「心得た。」
*****
すべての名を持つ良きものは、知恵の神の持つ巻物の中に、存在と名を記される。
これより先、"大いなる湖と沼地の守護者"、<緑の館の主>は、豊穣と水辺の神として、近隣にその名を知られることとなる。
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