第一章 彷徨える水辺 -1

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第一章 彷徨える水辺 -1

 建築現場は毎日、人、人、人の大混雑だ。  葬祭殿の建設は今が最盛期。近隣から駆り集められた労働者たちが一堂に会し、石を運び、削り、彩色を施す作業に従事している。人がいて、声を張り上げているだけでも暑苦しいのに、さらに季節は暑い季節(シェムウ)にさしかかろうとしている。  日陰にいても汗がじっとりと滲む。砂埃とともに吹き付けていく気まぐれな乾いた風も、お情け程度でしかない。  シェヘブカイは汗を拭い、容赦なく照り付ける太陽を恨めしそうに振り仰いだ。下級労働者が働く場所に涼しい日陰など無い。そして谷には、汗まみれになって重たい石材を運ぶ労働者たちの掛け声がこだまする。  石運びは過酷な仕事で、履物はすぐに擦り切れてしまうから、ほとんどの労働者たちは裸足のまま、荒縄を直接肩にかけて灼けた大地を踏みしめている。  彼らの向かう先、水辺より一段高くなった丘の上には、当代の王陛下(ネスゥ)が指示して作らせようとしている、真新しい葬祭殿が、まだ彩色もされていないまま、素の石のままの白い色を反射しながら聳え立っていた。  「今日の分の配給が届きました」  「出欠の記録をこちらへ。人数は?」 シェヘブカイは、現場の片隅で筆記具代わりの陶片を手に、今日の出勤者の名前と人数を書き付けている。傍らを、巻物や筆記具を抱えた書記たちが、慌しく駆けて行く。  日に一度、昼になると労働者たちにその日の報酬としてのパンとビール、陽によっては干し魚などが配られる。王の命で集められた労働者の数は決して少なくはない。おまけに今は農業の最も暇な季節で、近隣の村から臨時雇いで参加している季節工の労働者たちもいる。人数を数えるだけでも一仕事だ。  そうした労働者たちの名簿と出欠状況を管理し、一人ひとりに毎日の給料でもある食料を過不足なく配給するのが、下級役人と書記たち、或いはシェヘブカイのような、読み書きと計算の心得のある見習い建築技師の役目だった。  平時なら適当にやっていてもバレはしないのだろうが、今は何しろ、監督官たちが、些細なことでも気にしている。  「また、怪我人が出たとか…」  「昨日の晩、当直が二人」 どこからともなく漏れ聞こえてくる諦めにも似た囁き。ペンを動かしながら、シェヘブカイは耳をそばだてて聞いている。  (また、あれが出たのか…。) それは、毎朝の点呼のたびに、出欠名簿に「欠勤」の赤い印がつく原因だった。ここのところ毎日のように、労働者が怪我をして休職を余儀なくされている。  どんなに気をつけていても、どんなに神官たちが清めの呪文を唱えて守護神たちに加護を願っても、ほんの些細な隙から災いが忍び込む。  この土地か、あるいは王自身が呪われているのではないか、と――今では労働者たちのみならず、近隣の村や町でもうわさになっている。大して信心深くないと自負しているシェヘブカイですら、うっすらそう思い始めているくらいだ。  ただ、それは決して口にしてはならない言葉だった。神官か役人の耳にでも入ろうものなら、鞭打ちだけではすまされまい。地上における神々の代行者たる王の築かせている葬祭殿は、「聖なる場所」で無ければならない。そうでないのなら、威光も、権威も、神官たちの清めの儀式も、意味をなさぬものとなってしまうのだから。  死後に神となる王の祭儀を行う神殿――墓所の一部を形成する葬祭殿の建設予定地が決められたのは五年ほど前、まだシェヘブカイが学校に通っていた頃のことだった。  歴代の王が壮麗な墓所を築いてきた土地は、もう少し川の下流のほうだ。それなのに王がこの土地を選んだのは、単純に、昔からの聖地に良い建設地が余っていなかったこともあれば、過去の王たちの巨大な墓と比べられたくない矜持もあったのだろう。  多くの労働力を投入し、王の威信をかけて始められた葬祭殿の建設は、当初の予定では今年にはすでに終わっているはずだった。けれど実際は、遅々として進まない状態にある。――ここ半年ほどの間に、毎晩のように現れるようになった"水辺の悪霊"のせいだ。  正確なところは誰も知らない。  判っているのは、”悪霊”と呼ばれている存在が、夜闇の中で水辺からやって来るということ。そして、神々の守りも祝福もものともせず、作りかけの葬祭殿の中で暴れまわることだ。邪魔しようものなら、人間にも容赦なく向かってくる。  はじめは、王家の守護神たちの助けを借りればすぐにも撃退できるとタカを括っていた王や神官たちも、それが闇夜に塔門の大柱を砕いた時には、さすがに考えを改めた。  悪意を持つ何者かが、葬祭殿の建設を阻もうとしている。  今やそれは明らかだった。だが一体誰が、どうやって?  神官や役人たちが方々(ほうぼう)を当たったが、”悪霊”の正体は分からなかった。正体の分からぬものには手の出しようがない。至高なる太陽神(ラー)の神官たちにとっても、祝福されし王にとっても、それは大いなる屈辱だった。  日が暮れるたびに災いが訪れ、夜警当番や、夜中に用を足しに出た泊りがけの労働者が怪我をする。それでも労働者や下っ端役人たちに職務の放棄は許されない。命ぜられるまま日々黙々と自分の務めに励み、命の危険に怯えながら、ただ黙々と崩れゆく砂山に砂を注ぎ足すような、終わりの無い仕事を続ける他にないのだった。  「おい、セアンクんとこの息子! シェヘブ!」 名を呼ばれて、シェヘブカイは台帳を手にしたまま振り返った。石を運搬する人の列の合間をぬってやって来る体格のいい中年男は、父の同僚で、現場監督の一人だ。  「あっちでお呼びがかかってるぞ。急いで来いとさ」  「僕に?」 シェヘブカイは、内心驚いて聞き返した。指で差されたのが葬祭殿の中心部だったからだ。  そこは建築指揮の最も難しい列柱や、神像を収める部屋の並ぶ重要な部分で、限られた者しか立ち入りが許されていない。すぐ近くには王が視察にやって来る時のための仮ごしらえの小さな宮殿もある。  いわば"王の御前"だ。  シェヘブカイの七つ年上の兄でさえ、最近になってようやく父の助手として出入りが許されるようになったくらいなのだ。学校を卒業したての下級の技師など、近づくことも許されない。  それなのに。  「ああ、そうだ。お前に用なんだとさ。場所は行けば分かる、とにかく早く。」  「…わかりました」 呼ばれているなら仕方がない。  彼は台帳と筆記具を同僚に任せると、胸を躍らせながら駆け出した。こんな機会は滅多に来ない。この建設現場に通うようになってずいぶん経つけれど、神殿の中心部に踏み入ったことは、まだ一度もないのだ。神殿が完成すれば、そこは聖域として王族や神官など限られた人々しか見ることの出来ない場所になる。噂に聞く見事な浮き彫りや柱の装飾を目にすることができるのは、建設中の今だけだ。  降って湧いた好機を逃すつもりは無かった。  今のうちに、――許可されている間に、そこに在るものを見ておかなくては。  葬祭殿の本殿の立つ丘の上へと続く坂道には、相変わらず、石を運ぶ人の群れがいくつもの塊になって張り付いている。太い綱の軋む音と、何百人という人々のあわせた掛け声が太く谷間に反響し、側を通るだけで熱気と汗の臭いに気圧される。  「ほらどうした! 合わせろ、エイヤ! エイヤ!」  「運び終われば冷たい水が待ってるぞ! ソイヤ! ソイヤ!」 両脇から大声を張り上げて労働者たちを励ますのは、軍人あがりの赤ら顔の監督官たちだ。  一人がじろりとシェヘブカイを見下ろし、肩にかけた書記の印のたすきを眺めた。少年は慌てて視線を逸らし、たすきを掛け直して坂道を走る。  彼とて決してひ弱なほうではないが、日ごろ書き物と家の手伝いくらいしかしていないのと、毎日のように重労働をこなすのとでは、腕の太さも体格も全く違う。日に焼けた肌を持つ労働者の塊はまるで、丘に果敢に立ち向かう巨大な一個の猛獣のようだ。  汗を拭いつつ葬祭殿の入り口にたどり着くと、彼は、ひんやりとした日陰でようやく一息ついた。入り口に近い場所には、最近"悪霊"に引き倒されたばかりで、まだ修復されていない塔門の壁がある。その向こう側に連なるのは、奥まで続く何列もの太い列柱だ。  なめらかで、巨大な石の塊。均一で完璧な形を保つ乳白色の天梁。  彼は、思わず息を呑んで足を止めた。  その柱は、下流の採石場で切り取られる上質な石材から作られていた。この柱一本分の石を切り出すために、数十人が一ヶ月もかけて堅い石の槌を振り下ろさねばならない。大きな船を使って運び、港から神殿まで何十人もの労働者たちが力をあわせて運び上げる。だから、石の大きさを指示する建築技師に計算間違いは許されない。はめ込む位置から大きさと角度を正確に割り出し、それを石切り場に伝えて、注文どおりの石材が届くよう手配しなければ――  「おい、そこのお前」  「あ、はいっ!」 夢中になって石の表面を撫でていたシェヘブカイは、我に返って思わず「気をつけ」をした。胡散臭そうな顔の小太りの書記が、召使に団扇で煽がせながら柱の間からこちらを見ている。  「神官に呼ばれていた、セアンクの息子か?」  「あ、はい。…え、…神官?」  「その先、真っ直ぐだ。白い幕屋がある。行け」 それだけ言って、さっさとどこかへ消えてしまう。貴族出身の上級書記だろうか。同じ「書記」でも、村の寺子屋で読み書きを学んだだけの技師の子とは雲泥の差だ。さっきの書記は、暑い中を汗をかきながら名簿をつけるような仕事はしないに違いない。  奥へ向かって歩き出しながらそれとなく振り返ってみると、さっきの小太りの書記が、既に組み上がった列柱と壁面に施されている仕上げの彫刻や彩色を確認して回っているのが見えた。  大人が何人も腕をつないでようやく囲めるほどの柱の上部には、蓮や椰子を象った美しい彫刻が施され、壁には聖なる字句と神々の姿を刻むための下書きがされている。奥のほうからは、彫刻師たちがひっきりなしに手を動かす、石を刻む規則正しい音が響いていた。  四方を石の壁に囲まれた空間に一歩踏み込むと、表の喧騒は瞬時に消えた。まだ完成まではほど遠いというのに、葬祭殿の中には冥界にも似た静寂が漂っている。  奥へ向かって歩いているだけで緊張してくる。示された道を歩きながら、シェヘブカイは、だんだん不安になってきた。神官だって? 一体どういうことだろう。そもそも、この呼び出しの理由は何なのだろう。  行く手に白い幕屋が見えてきた。完成の暁には中庭になるであろう場所だ。まだ天井が作られていないお陰で陽光が直接降り注ぎ、日陰に慣れてきた目には余計に眩しく見える。  手を翳しながら、少年は幕屋の入り口に立った。  「呼ばれたので来ました。セアンクの息子、シェヘブカイです」 幕の奥で人影が幾つか、うごめいた。布が少し持ち上がり、誰かの顔がちらりとこちらを伺い見る。かすかな香の匂い。ぼそぼそと話し合うような声。ややあって、おごそかな老人の声が幕の奥から響いてきた。  「よく来たな、シェヘブカイ。お前に役目を申し付けねばならぬ」  「役目?」  「神殿に災い成す者を突き止めよ。」  「…え」 それはあまりにも唐突で、思いもよらなかった言葉だった。  「今、なんて言いました」  「神託が下ったのだ。”そは地にある人の世の事なり、天なる神々は関与せず”とな。――”しかるべき者を立てて成すべきことを為さしめよ”。選ばれたのがお前なのだ。行け。お前には役目が下された。必要なものがあれば支度しよう。ただし、任を果たすまではここへ戻ってはならぬ」  「……。」 立ち尽くしている彼に、幕の奥の声の主は苛立たしげにもう一度、行け、と命じる。シェヘブカイは、慌てて、ひとつお辞儀をして踵を返した。  わけがわからない。  聴いた言葉を頭の中で反芻しながら、彼はぼんやりと元来た道を引き返した。頭の中は混乱し、疑問符で一杯だ。神殿の災いを突き止める? 神託? なぜ自分が?  行く手に眩しい光が近づいて来る。葬祭殿を出て坂道に差し掛かろうとしたとき、ちょうど、向こうからやって来た青年とばったり鉢合わせた。兄のメンケペルだ。顔を合わせるなり、苦い顔で目を逸らす。しまった、という顔だ。  「兄さ…」 言いかけるより早く、相手が口を開いた。  「話は聞いたろ。父さんももう知ってる。言われたことを果たしにゆけ」  「……。」 ぶっきらぼうに言って、忙しいといわんばかりに背を向ける。取り付く島もなかった。  父を探そうかとも思ったが、内陣の最も難しい部分を任されている建築監督が、この時間に暇なはずもない。諦めて、シェヘブカイは家に帰ることにした。夕方になれば父も戻って来るはずだ。その時に話を聞いてみよう。  丘を降り、桟橋を通り過ぎようとしたとき、さっき台帳を押し付けた同僚が声をかけてくる。  「おいシェヘブカイ。これどうすれば…」  「帰る。それよろしく」  「って、どこへ行くんだ!」  「あと、…」 自分の出勤簿に「午後帰宅」の印をつけながら、彼は振り返って、曖昧に口の端を持ち上げた。「たぶん、僕、明日から来ないから。」  腹立たしげに砂を蹴って去ってゆく少年の後姿を、書記は、ただぽかんとして見送っていた。
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