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第三章 黄金の鷹-3
日々は、あっという間に過ぎていった。
冬が過ぎ、やがて春の訪れとともに畑には順調に緑が成長していった。
幼い子供たちは歓声を上げながら畑の間を走り回り、未亡人のカイエトは籠を編みながら時々手を止め、満足そうに子供たちと畑とを見回している。その間に、シェヘブカイは、せっせと日干し煉瓦を積み上げては水路を補強していた。レニセネブから、川の水位が高くなる時期にはよく家が水浸しになると聞いていたからだった。浅くくぼんだ沼地にはほとんど高低差がなく、水がたまりやすい。いったん水が堤防を越えてしまうと、あとは蒸発するに任せるしかないのだ。
泥に足首を埋めながら仕事をしていると、頭上から声がした。
「今日も頑張ってるわね。」
汗を拭いながら見上げると、ティティスが籠を手にして立っている。
「差し入れよ、少し休憩しない?」
「ああ、助かる」
水で手足を洗って土手を上がってゆくと、木陰に敷物が敷かれていた。シェヘブカイは、ティティスと並んでその上に腰を下ろす。差し入れは、ヒヨコ豆入りの焼きたてのパンだった。少し焦げた豆の匂いが食欲をそそる。母から作り方を教わったというそれは、両親と住んでいた家にいた頃の味と、今ではほとんど変わらなかった。
シェヘブカイが勢いよくパンにかぶりついている間、ティティスは、青々と茂って風に揺れる麦の穂を眺めていた。
「立派に育ったわね。これなら、収穫は期待できそう」
「うん。ここは、いい土地だよ。ちゃんと水路を整備してやれば、何人だって養える」
「大したもんだわね。あんたって」
笑って、ティティスは肩をすくめた。その肩にかかる髪のふさに、見覚えのない飾りが揺れるのに気がついた。小さな焼き物の花がつけられた髪留めだ。――イティの趣味だな、とシェヘブカイは思った。母に逢ってきたのだ。だからこうして、差し入れを口実にやって来たのだろう。
「何か言ってた? 母さんは」
「あ、うん…」
何気なく尋ねたつもりだったのに、ティティスは少し口ごもった。パンのかけらを飲みこみながらシェヘブカイは、少女の横顔に目をやる。
「何かあったのか」
「あんたのお兄さん、家出るんだって。それで寂しくなるって言ってた。」
「兄さんが?」
思わず、手を止める。何度か実家には戻っていたが、兄のメンケペルとは、あれ以来いちども会えていない。
「どうして? どこへ行くって?」
「詳しくは聞いてないの。ただ、葬祭殿の仕事が終わるから、別のとこへ――って。」
「……。」
胸の奥で、あの夜の兄の姿が蘇る。このまま会えなくなってしまうのは、嫌だ。どうしても、もう一度会わなくては。
ティティスと別れた後、シェヘブカイは水辺の祠を訪れていた。入り口の門をくぐると、柔らかな花の香りが鼻孔をくすぐる。何度か増設して、祠は、今では門と立派な周壁を持っていた。
木陰を覗き込むと、<緑の館の主>は草の冠を被って眠っていた。シェヘブカイは思わず目を丸くした。
「どうしたの、それ」
「…人間の子供が持ってきた」
うっすらと目を開けて、彼はまんざらでもない口調で言った。「畑の実りのお礼だと被せられた。」
「へえ」
きっと、スィトだろう。川べりの草花で作られた草の冠は、子供の手になるものらしく、ちょっぴり歪んでいる。
「何か用だったか?」
「あ、うん。久しぶりに、向こうの村に戻って来ようと思って。また何日か留守にするけど、心配しないで」
「…そうか。今度は水に落ちるなよ」
「わかってる。心配かけないよ」
小さく笑うと、<緑の館の主>は口を閉ざし、再び眠りに落ちていく。シェヘブカイは、緑の冠を頂いて静かに眠る端正な横顔をしばらく眺めていた。
巡る季節の中、彼だけは変わらない。日々少しずつ年をとってゆく人や獣たちとは違い、彼の見た目は、最初に出会った時のまま。
けれど見た目は変わらなくても、彼はもう、世界に置き去りにされたような眸はしていない。<緑の館の主>、緑豊かな畑と沼地に囲まれた、ここが、彼のいるべき場所だ。
川面に光がきらきらと反射し、ときおり魚が浅瀬に飛び跳ねる。いつもの風景、見慣れた川べりと村の家々が視界を通り過ぎてゆく。
両親の家に向かう前、シェヘブカイは、葦舟を操って少し下流へと足を伸ばした。完成間近だという葬祭殿を見てみたかったのだ。この辺りまで来るのは、ほぼ一年ぶりだ。川辺には石材を運ぶための大きな船が何艘も停泊し、風に乗って、汗の匂いと、労働者たちの掛け声と、土埃とが近づいてくる。
やがて、行く手に、川から続くなだらかな斜面と、崖に向かって寸止まりの丘の上に建つ葬祭殿とが現れてきた。シェヘブカイは流れに櫂をさし、舟の歩みを止めると、目の前にある壮麗な建築物を水上からじっくりと眺めた。
白い石で作られた葬祭殿は、強い日差しに照らされて光り輝くようだ。その側面に足場が組まれ、装飾職人たちが浮き彫りに沿って色をつけている。その横では、彫刻師がノミをふるい、柱の頭に植物の意匠を彫りつけている。
まさに今、仕上げの段階なのだ。労働者たちは、不要になった足場を取り壊し、斜面に薄く切り出した石の板を並べて参道を作っている。完成すれば、川から神殿までは一本のなだらかな、長い斜面で繋がれることになる。その道は、いつか王が亡くなった時、棺が運ばれてゆく道だ。そして王は、葬祭殿の中で神々と一体化し、死者の世界で永遠の生を手に入れる。
流れに揺れる舟の上に立って労働者たちの作業を眺めていると、監督官の一人が彼に気づいて手を挙げた。
「おうい。そこにいるのはセアンクのとこの息子じゃないか?」
その顔には見覚えがある。父の同僚の建築技師だ。確か、父が大怪我をして担ぎ込まれたときも一緒にいた。
舟を川岸に近づけると、男が大股に近づいてきた。
「どうした、親父さんを探しにきたのか」
「いや、ここがもうじき仕上がるって聞いてちょっと見にきたんだ」
そう言ってシェヘブカイが視線を丘の上に投げると、男もそれにあわせて葬祭殿のほうを見やった。
「長かったが、ようやっとここまで来れた。お前さんが"災いの主"をおさめてくれたお陰だな? はっはっ」
「……。」
「なあに、心配しなくても、ここさえ出来上がっちまえば、またお前さんにも仕事はくるさ。それとも、噂の<ワニの沼地>のほうが気になるのかい?」
そう言って男は、日に焼けた顔で陽気に笑った。
「おじさんは、ここが出来上がったらどこに行くの?」
「うん?」
「次の仕事。建築のお仕事は他にもある?」
「ああ。俺ぁ上流の墓所の修繕工事に行く。嫁も土地もない、流しの建築屋なもんでね。身軽なのはいいことだ。」
男は汗を拭い、もういちど白い歯を見せて笑うと、元の作業のほうへ戻っていった。「ほらそこ、水平が保たれていないぞ。右をもうすこし削るんだ。それで…」
揺れる舟の上から、シェヘブカイは、葬祭殿の周りで働く人々をぐるりと見回した。もうじき、労働者たちは次の現場へと散ってゆく。国中のどこか。場合によっては遠いところへ。メンケペルは一体、どこへ行くつもりなのだろう。
家に帰ってみると、イティはいつものとおり台所にいて、床に広げた籠のうえで野草をより分けているところだった。
「あら、シェヘブ!」
何の前触れもなく玄関に姿を現した下の息子の姿を見るなり、イティの顔がぱっと明るくなった。「おかえりなさい。まあまあ、しばらく見ないうちにまた男らしくなって。」
「ただいま、父さんたちはまだ仕事なの?」
「父さんだけよ。兄さんはもう、現場には行ってないの。二階にいるわ。」
「そう」
では、今日は避けられずに話しが出来るのだ。
急いで二階に上がって兄の部屋を覗いてみると、メンケペルは、窓辺に置いた卓に頬をついて、うつらうつらしていた。手元には書きかけの手紙らしきものがある。
開いた扉を軽く叩くと、ようやく目を開けた。
「…なんだ、お前か。帰っていたのか」
シェヘブカイを見るなり、いつもどおりのむっつりした顔で不機嫌そうに言う。言いながら、手元に広げていた手紙は素早く隠してしまった。久しぶりだというのにつれない態度だったが、逆に、ほっとする。良かった、いつもの――記憶にあるとおり、昔のままのメンケペルだ。
「家を出る、って聞いた」
「ああ」
「いつ? どこへ行くの。上流の墓所の修繕ってやつじゃないよね」
「…違う」
だが、ほっとするのも束の間。「東の砦の…建て直しに行く」
「東の砦?」
「街道だ、海沿いの」
目の前がうっすらと暗くなるような気がした。海、それはシェヘブカイが生まれてからまた一度も見たことの無い、噂で聞く"世界の果て"だった。
「どうしてそんなところ。それって、国境じゃない。国の端っこだよ、その先はもう外国だ」
「そうさ。だから行くんだ」
「遠いよ。それに…もし、よその国が攻めてきたら…」
「そのために砦を丈夫に建て替えるんだろう」
メンケペルは呆れたような顔になって、戸口に立つ弟を見やった。「そんなことを言いに戻ってきたのか?」
「だって、遠くに行ってしまったら、しばらく会えなくなっちゃうじゃないか」
「…好都合だったんじゃないのか、そのほうが。」
「兄さん」
「ほっといてくれ。いい子ぶって生きるのはもう、うんざりだ。ここにいると息が詰まる」
怒鳴るでもなく、声を荒げるでもなく、ただ淡々と、静かな、それでいて断固とした口調だった。シェヘブカイの握り締めた拳は、やがて力を失い、力なく垂れた。
「――決めたことなんだね」
「ああ。」
「また、戻ってくるよね?」
「わからん」
そう言ってメンケペルが睨みつけようとしたとき、シェヘブカイの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。メンケペルは、次ぐべき言葉を失った。
「…なんで泣く」
「だって」
「…お前が嫌いだからそうするわけじゃない。俺の居たい場所は、ここにはない。それだけだ」
ふいと顔を逸らして、兄は卓のほうに向き直った。
「男がめそめそするな、いい年をして。お前ももう、子供じゃないんだろう? ――行けよ。これから仕事の手紙を書くんだ。俺は忙しい」
追い出されるようにして、シェヘブカイは階下に戻った。泣いている下の息子を見て、イティは何があったのか悟ったようだった。
「兄さんのこと、心配はいらないのよ。今は戦争のない時期だし、砦の仕事だって数年すれば終わるから。ね」
「でも、戻ってこなかったら…」
「そんなはずないでしょう。あの子の家は、ここなんだから。」
精一杯元気付けようと、イティは明るい声を作っていた。けれど、母もまた不安なのだ。見も知らない、異国にも等しい場所に息子の一人が長期間旅立ってしまうのは。
にゃあ、と足元で声がした。
見下ろすと、飼い猫のマウが座ってこちらを見上げている。
「あれ、お前… 妙に太ったな」
「妊娠してるのよ」
と、母が言う。「さいきん近所に越してきた人の連れてた猫が雄でね。」
「ええ?」
シェヘブカイは、目をしばたかせた。「こいつ雌だったんだ」
「やだ。気がついてなかったの? そうよ。お母さんになるの、この子」イティは、くすくす笑って猫の頭を撫でた。「子猫が生まれたら、あんたのところにも連れてくといいわね。きっと賑やかになるわ」
「うん。――そうか、お前ももう、大人になってたんだな。」
答えるように、どこか誇らしげに、猫は一声鳴いた。時は流れ、人も、人ならざるものたちも皆、少しずつ変わってゆく。
猫を撫でてやりながら、シェヘブカイは、居場所を見つけられず、遠い場所へと旅立ってゆくメンケペルのことを思った。兄にも、戻るべき場所が見つかるだろうか。いつかまた、ここで逢えるだろうか。
シェヘブカイのもとにマウの生んだ子猫の一匹が届けられたのは、メンケペルが東に向けて旅立ってから、二ヶ月ほど経ってからのことだった。
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