【間話】変容 -2

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【間話】変容 -2

 家が一軒しかなかった祠の周りは、いつしか、以前とは比べ物にならないほど賑やかになっていた。住人が増えたからだ。  「今日はカイエトの家を建て増ししにいくんだよ。レキとスィトは別々の部屋がいいって言うし、子供たちが走り回っていると、家ってすぐ手狭になるんだよね」 忙しそうにしているにも拘らず、シェヘブカイは、毎日一度は様子を見にやって来て、何かと話をしていく。今日も、朝一番で漁に出てとれた魚を手土産に祠にやって来たところだ。   「スィトはあんたのこと、うっすら見えるみたいだよね、なんでだろう」  「稀に、勘のいい子供にはそういうことがある。大人になれば見えなくなるが」  「僕も、そうなのかな?」 シェヘブカイは、心配そうな顔だ。  「いや。お前は多分、違うだろう。お前はもう大人だし――私に名をくれた者だ。」  「そっか。姿が見えなくなると寂しいから、それならいいや」 彼は、祠の前庭の池のほとりに立って背に日を受けていた。会話が途切れると、畑のほうから子供たちの走り回る賑やかな声が響いて来る。 季節は冬に差し掛かり、日差しは鋭さを失っていた。  「あの人間たちは、ずっとここに住むのか?」  「うん、そう。たまにここにも来てるって言ってたけど」  「ああ」 彼は祠の奥にちらりと視線をやった。砕けた像の上には、小さな手が作った少し不器用に歪んだ花輪と、とれたての魚を入れた籠、それにティティスが置いていったビールの壷が置かれている。  「あの人間たちは、飢えていたのか?」  「そうかもしれない。町での暮らしは、苦しかったって言ってたから」 祠にやって来た新しい住人たちは、お供えとともに願い事をして帰る。  「おなかいっぱい食べたい」  「おとうさんが帰ってきますように」  「子供たちが無事に成長するよう見守っていてください」。 そうした願いは、たとえ声には出さなくても、祠の主である彼には届いていた。けれど、一番よくやって来る人間の願いだけは読み取れなかった。シェヘブカイの心の中はいつも空っぽだった。まるで晴れた日の空のようだ、と彼は思った。雲ひとつない青い、高い空。凪いだ水は、それを鏡のように映す。  「お前には、何か望みはないのか」  「ん?」 少年が振り返る。  「一杯あるよ。この畑をもっと広くして、どこよりも実りのある場所にしたいな。そのために色々考えてるんだ。水路をどう作ろうかって。あと、父さんと母さん、兄さんが元気で無事で暮らせるといいなって…それから…」  「それから?」  「…うん」 口ごもると、シェヘブカイはかすかに頬を染めて俯いた。  「大した願いなんてないんだ、今は幸せだし。僕はただ、このまま皆と一緒にずっと暮らせたらいいなって。」 その心のうちに、いつも話をしている少女の面影が過ぎったことを感じた。それから、…祠と、その中に住む存在のこと。  だが、本当は、もう一つ大きな望みがある。  言葉にはしなくても、それが判る。シェヘブカイの中にはいつも、ある一つの光景が広がっている。緑に生い茂る豊かな畑が一面に広がる風景だ。川沿いの狭い耕作地だけではない、水辺から見渡す限りの平原が沸き立つような大地の息吹に覆われた、――青い空と、緑とが織り中なす世界。  緑は生命の色。若さと再生の色。シェヘブカイの意識の中で、<緑の館>は、その世界の中心にあった。  とはいえ現実の畑は、見渡す世界の全てを覆うほどではなく、水が引いたばかりの畑の作物は、まだ背が低い。夢への道は遠いのだ。  彼は、祠の外の畑に意識を向けた。  「この地は、豊かになったな。」  「うん。あんたのお陰だよ」  「お前の力でもある」 緑のそよぐ畑には、シェヘブカイの作った水路から水が引き込まれ、とうとうと流れている。  「…"永遠なるもの"」 しばらく黙っていたシェヘブカイが、ふいに口を開いた。  「夢、ってわけじゃないんだけど、ずっと昔から考えてることがあるんだ。"永遠"って何なんだろう、って。言葉は学校で習った。書き方も知っている。前は、この空や、地面や、川の流れがきっとそうなんだろうと思ってたんだ。だけど最近、気が付いたんだ。ここへ来て畑を作るようになってからさ、全部じゃなくても、川の流れは変えられる。荒れてた土地も、こんなに実るようになった。」  「……。」  「僕が死んでも、この世界はきっと変わらないんだろうって、ずっと思っていた。だけど世界だって少しずつ変わるんだ。人は死んでしまう。神さまもいなくなることがある。…だったら、"永遠"って何だろう。本当にそんなものがあるんだろうか、って。――」 黒い瞳が真剣な眼差しに、未知への好奇心に輝いている。それは、人間だけが時折見せる、不思議な生命の輝きだった。  「王さまの葬祭殿は『永遠の家』って呼ばれてた。人は"永遠"を作れるのかな? 僕にも出来るかな?」  「それは分からない。が――お前なら、出来そうな気がする」 シェヘブカイは、照れたほうに笑うと無言に背を向けた。畑仕事に戻るのだ。彼は、いつもの木陰に腰を下ろしながら考える。  "永遠なるもの" それは、古より呪文の中に繰りかえし語られていながら、神々の世界にすら存在することは稀なものだ。人に忘れ去られた守護者たちが消えてゆくように、神にも死があるように、世界もいつかは終わる時が来る。  全ての獣たちはそれを、本能的に知っている。命あるものは何であれ、いつかは死なねばならないと。石に刻まれた碑文でさえ砂や風に削られて薄れ、書物に記された記憶もいつかは風化する。  永遠とは、何なのだろう。  それは―― 本当に何所かにあるものなのだろうか?  「にゃあ」 ふいに、もそもそと何かが腹の上によじ登ってきた。彼は思考を打ち切り、閉じていた眼を開いてそれを見下ろす。体をよじ登ってくるのは毛むくじゃらの、小さな塊。最近、シェヘブカイの家で飼われはじめた子猫だ。塀の隙間からやって来たらしい。  「飼い主に似て大胆な奴だ」 苦笑して、彼は子猫をつまみ上げると、傍らへ押しやった。だが子猫は、その指にしがみついて離れようとしない。何やら懸命にニオイを嗅いでいる。  「魚の匂いでもするのか?」 子猫は答えない。水に棲む生き物ではないため、彼には言葉は分からないのだった。  まあいい、と思いながら、じゃれてくるままにして再び眼を閉じる。遊びに飽きればどこかへ行くだろう。  「セブー、どこなのー」 どのくらい時間が経っただろう。声が近づいて来るのに気づいて、彼は眼を開けた。  「あー、こんなところにいたのね!」 祠の入り口に、黒髪を肩先で切りそろえた少女が立っている。視線をやると、子猫は、彼の傍らで丸くなって一緒に眠っていた。  「しょうがない子ね」 子猫を抱き上げると、少女はちらりと木陰に咲く白い花のほうに眼を向けた。彼の姿は見えていないが、何かの気配は感じたのかもしれない。  祠のほうに向き直ると、無言のまま一礼した。  そして、猫を抱いたまま走り去る。  彼はその様子をじっと眺めていた。少しずつ、――何かが変わり始めている。この小さな集落の中で、何かが。
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