第三章 黄金の鷹-5

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第三章 黄金の鷹-5

 豊かな実りに恵まれた畑に金の穂が揺れ、汗を拭いながら黙々と働く大人たちの傍らで、子供たちの声が響く。収穫は、夕方、暗くて手元が見えなくなるまで続いた。刈り取った穂は、何日か天日で乾かすため、束ねて逆さに吊るしておく。そして翌朝は日の出の少し前、明るくなり始める頃には畑に出る。その繰り返しだ。  三日目にはティティスも手伝いに来て、収穫は順調に進んだ。あまりの忙しさに、日を数えることも忘れるくらい。  そして今日、ようやく最後の穂の刈り入れを終えた。  一年で最も忙しい季節を乗り切った安堵感。心地よい疲労の中、シェヘブカイたちは小さな火を起こし、遅い夕飯をとっていた。レキとスィトの兄妹は、母の膝に頭を置いて眠りこけている。  「さすがに疲れたな。でも、思った以上の収穫だった」  「ええ」 カイエトは嬉しそうに微笑み、眠っている子供たちの頬を撫でた。「ここへ来て良かった。今年はようやく、この子たちにお腹いっぱい食べさせてやれます。町に住んでいた頃は、一日一食がやっとでしたから…。」  「たくさんパンが焼けるね。感謝しないと」  「そうだ。シェヘブカイさん、これを」 カイエトは、側に吊るした麦の穂から一房を取り、焚き火ごしに差し出した。  「祠の"大鰐" 様に差し上げてください。来年もよろしくと」  町からやってきて間もないというのに、カイエトは、今や大鰐の立派な信者なのだった。パンをかじっていたセンネトが手を止めた。  「ワニが小麦なんて食うのかい?」  「食べないでしょうけど、気持ちは大事なんです。そういうものですよ。」  「ふーん」  「さ、早く食べて片付けてしまいましょう。明日からは、少しゆっくりできます」 カイエトはがてきぱきと食器を片付け、眠っていた子供たちを起こして家のほうへ追いやる。夜風が吹き始めている。  「それじゃ、おやすみなさい。」  「ええ。おやすみなさい」 シェヘブカイが腰を浮かすのと同時に、センネトも立ち上がった。昼のほのかな赤みは完全に消え、空は満天の星空だ。闇に紛れて、刈り取られたばかりの麦の、かすかに青臭い香りが鼻孔をくすぐる。  「で、"大ワニ" 様のところへ行くのか?」 星明りに照らされた畑の畦道を歩きながら、男は、シェヘブカイの持つ麦の穂に視線をやる。  「ああ。この時間だと、祠の前で水浴びしてるかも。涼しい夜のほうが好きみたいなんだ」  「あんた、まるで友達みたいに言うんだな。見えるのか?」  「うん、まあね。…おかしい?」  「いいや」 センネトは、ふざけたような口調のまま空を振り仰いだ。  「おれも昔は、神ってやつが少しは見えると思ってたことがあるよ。けどな、そういうの信じられなくなって、いつのまにか、みんな消えちまった。神なんつっても、みんな身勝手なもんさ。願いなんて――」 祠の入り口に差し掛かり、シェヘブカイは、足を止めた。センネトも口をつぐむ。  祠の前の水際に、白い影が見えた。かすかな水音と、水面に広がる長い髪。小さな波が闇の中に広がっているる  「なんだ、ありゃあ」 シェヘブカイは、驚いて振り返った。  「あんたにも見えるの?」  「ああ。真っ白な、えっらく年食ったでっけぇ鰐がな」 白い影は、振り返ってこちらに近づいて来る。滑るような動きで水辺にたどり着き、葦の茂みを搔き分けながら立ち上がる。センネトは慌てて目をこすった。  「いや、…違うな。足…人間…? これは…」  「あれ、その眼」 混乱しているセンネトをよそに、シェヘブカイは<緑の館の主>の顔を見上げていた。揺れる長い髪の下に輝く金の眸は、左眼だ。昼間とは逆に、右眼のほうが色彩のない灰色に変わっている。  「今は左眼(イアビィ)なんだね。これ、麦の収穫が終わったから、報告に持ってきたんだけど…昼間のほうが良かったかな」 <緑の館の主>は差し出された麦の穂をただ一瞥しただけで、そのまま視線をシェヘブカイの後ろの男へと向けた。  「…お前の守護者は、そこにいる」 そう言って、暗い空の向こうに視線を投げた。センネトもそちらを見上げる。シェヘブカイの前には星空しかなかったが、センネトには何か見えているのだろうか。  「今もお前を守るために働いている。何故、報いてやろうとしない?」  「チッ、ったく。どこまでもついてきやがる――あいつとはもう、縁切ったはずなのによ。ほかの連中は、嬉々として離れてったぜ?」  「血の守護神、家系を守る者だけは、死ぬまで離れない。あれは自分の意志では離れられないものだ」  「まったく、面倒くさい縛りだよ」  「センネト、そういう言い方は失礼だよ」 シェヘブカイは、たしなめるように言って、もう一度、空を眺めた。やはり何も見えないが、――空にいるからには、空を飛ぶもの、鳥か何かの姿をした神なのだろう。  「なあ、ワニ様。おれは、あいつの監視が離れたいんだが。どうすりゃ離れられるんだい?」 あまりに不遜な質問だったが、<緑の館の主>は表情一つ変えずに、淡々と答えた。  「――何もする必要はない。じきに消える。そう長くはない。」 センネトの表情が、はっとしたようになった。  「お前は長いこと、あれに何も与えてやらなかった。恐怖でも、感謝でも、人が何かの思いをかけなければ、肉体なき存在は消える」  「……。」  「殺したいなら、好きにしろ。あれはお前のために存在するものだ」 それだけ言うと、<緑の館の主>は、ふわりと長い髪をひるがえし祠の入り口に向き直った。そして、歩き出したかと思うと、、白い影は闇に溶けるように視界から消えた。  祠に麦の穂を収めた帰り道、シェヘブカイは、どこか放心した様子のセンネトに尋ねてみた。  「センネト…、あんた、本当は何者なんだ? 町役人なんて、嘘なんだろ」  「なんでそう思う」 シェヘブカイは無言に、男の手を指す。左手の、人差し指の付け根のあたりに皮がこすれてタコが出来ている。  「それ、弓弦の跡でしょ」 ああ、と言ってセンネトは指をこすった。  「気づいてたのか。――」  「それに、皮のサンダルを履いてた。町役人だとしたら、相当いい身分だったはずだ」  「…それは否定しない。ただな、嘘は言っちゃいない。家庭教師に帳簿の管理、指輪磨きも椅子の修繕も、今まで実際にやってきたことさ。神官の見習いみたいなことをしてた時期もあった。」  「神官?」  「ああ。えらい神様連中とはその昔に仲たがいしたっきりだ。どうにも性に合わなくてなあ。んで、神官修行から逃げ出して軍にな。」 笑いながら肩をすくめ、彼は珍しく真面目な口調で言った。「…あの大鰐の守護神は、実りをもたらす神だと言ったな」  「うん」  「それだけとは思えんな。さっきのあの気配、ありゃまるで、戦さ神だったぞ。」  「それは、さっきのが左眼(イアビィ)だったからさ。左眼は――もう一つの姿は…怒りと憎しみだって、彼は言っていた。でも、それはもう昔のことだよ。二つは一つなんだ。いつもは、もっとずっと穏やかな感じでさ」  「”憤怒”か。」  「え?」 センネトは足を止め、足元の石ころを拾い上げると、暗い地面に文字を書いた。"憤怒"。その言葉の後ろには、鰐の形をした文字がつけられる。  「鰐ってのは、こういうものだろ」 言いながら彼は、鰐という文字がつけられる言葉を次々と地面に書いていった。  貪欲、憤怒、攻撃、――。  水辺で鰐に襲われて命を落とす者は、沢山いる。夏場になると、毎年のように近隣の村で誰かが水の中に攫われる。多くの村や町で、鰐が守護者ではなく、恐怖の対象とされているゆえんだ。  「こうして見ると、"ワニ"で表現される言葉は、あまりいい言葉じゃないんだね」  「それは取りようの問題だ。元が強烈な性格だからこそ、強力な守護者にもなり得る」 センネトは、じっとシェヘブカイの顔を覗き込んだ。  「鰐は縄張り意識が強い。意外と仲間意識も強いんだ。あれで、まめに子育てもする。貪欲さは、自分の守る対象に対して発揮されるなら良いものだ。縄張り、仲間、所有物――。」  「……。」 兄のメンケペルを追ったあの夜、現れたイアビィが言った言葉が蘇ってくる。  『お前の命は"私のもの"だ。奪われるなら戦う』 そうだったのか。だから左眼(イアビィ)なのに助けてくれたのだ。  ふいにセンネトは、にやりと笑って石を放り投げ、いつものふざけたような口調で言った。  「なあ。ってことは、この村に棲みついてあいつのものになれたら、おれも、守ってもらえるかな?」  「なんだよ、それ。あんた自分の守護者がいるって、さっき」  「あいつじゃダメだ。」 即座に返ってくる、堅い声。  「でも…。無視していたら、消えてしまうんだろ」  「それでもいい。おれはもう、あんなものに縛られていた頃には戻りたくない。」  「……。」 さっと歩き出しながら、センネトはわざとらしく、ひとつあくびをしてみせた。  「あーあ、疲れたな。もう寝ようぜ。明日は早起きしないでいいんだろ?」 言いながら、さっさと家の中に入っていく。  センネトは何か隠しているな、とシェヘブカイは思った。  仕事を辞めて逃げ出してきたのは、そう単純な話ではないのだ。自分の守護神まで捨てたいというのも。  沼地のほうから、かすかに虫の声が聞こえる。寝静まる小さな集落を見下ろす夜空の下には、見えざる鷹の羽ばたきが空しく響いていた。
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