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尻尾を重ねて
ひっきりなしに鳴る外線。
方々から飛び交う美辞麗句。
阿南商材株式会社の営業部は、今日も上を下への大騒ぎだ。
「はい、阿南商材の南條です……はい、カネタの。はい。いつもお世話になっております」
営業部係長、南條章も、この日は次々にかかってくるお客様からの問い合わせに追われていた。
今日は月末の金曜日、会計が締めになるお客様も数多い。故に、営業の電話も普段以上にかかってくるわけで。
「はい、発注。いつもありがとうございます。はい、それでは後程、メールで請求書をお送りいたしますので、はい。
はい、ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
この日も、章はカネタ物産株式会社からの発注の電話を受け取り、その対応をそつなくこなし、受話器を置いて。
そうしてすぐさま、ぐーっと後方に身体を伸ばすのであった。
「あーーー、ようやく……ようやくカネタの発注取れたーーー」
「お疲れさん。忘れないうちに請求作っとけよ」
隣の席から、部長代理の本間さんが眼鏡を押し上げながら声をかけてくる。
わざわざ言われるまでもない。すぐさまにエクセルを立ち上げ、請求書のテンプレートを読み込む。カネタからの発注は大口だ、一秒の遅れも許されない。
ノートパソコンのディスプレイに向かい、険しい顔つきでキーボードを叩く章の耳に、同じ営業部の女性たちが話す声が聞こえてくる。あの声は新卒の高梨さんと、少し上の堀井さんか。
「南條先輩、すごいよねー。カネタからの発注って、数千万規模の大口でしょ?」
「ねぇー。係長になっても驕らず真面目に仕事してるんだもん、すごいわぁー」
キャピキャピした明るい声色の高梨さんと、年の割に大人びた口調で間延びした声の堀井さん。二人とも営業部の職員としてきっちり仕事はこなすのだが、どうにも、私語が絶えない。
「しかもあれでしょ、つい先日結婚して新婚ほやほやでしょ? 順風満帆だよねー!」
「もうねぇー、射止めた奥さんが羨ましいわよぉー。あんなイケメンで仕事も出来て料理も出来る男なんて、ねぇー」
にこにこと笑いながら章の噂話で盛り上がる二人。
噂の内容は別段否定することもない、至極正しい内容だ。イケメンなのは方々から言われているし、仕事についても上司から評価されているから分かる。料理も、自分で昼の弁当を用意しているのは周知の事実だ。本当は妻と交代で作っているのだけれど。
しかし、さすがにそろそろ注意をしないと仕事上、問題だ。章はため息をついて顔を女性二人の方に向けた。
「高梨さん、堀井さん、噂話に花を咲かせるのもいいけれど、仕事中だからね」
「「はぁーい」」
返事を返しながらも、高梨さんも堀井さんもにまにました笑みを隠そうともしない。憧れられているんだか、侮られているんだか。
ため息をつきながら再びパソコンのディスプレイに視線を向ける章に、くつくつと笑いながら本間さんが声をかけてくる。
「相変わらず女性陣の憧れの的だな、南條」
「あんまり嬉しいものでもないですけどねー……」
本間さんの言葉に、章の口元も自然と持ち上がる。
嬉しいものでは、ない。だが噂をされないのはもっと悲しいし、今のところ危険な噂は立っていないから、大丈夫だろう。
章の答えに、本間さんはオールバックの髪をさらりと撫でつけながら再び笑った。
「はは、お前らしい。ところで、六時から虎丸運送さんとの会食が入ってる件、大丈夫か?」
「あ、大丈夫です。溜池山王の個室の店、ちゃんと六名で抑えてます」
上司からの問いかけに、こくりと頷く章だ。
今日は午後五時に虎丸運送の営業部と顔合わせがあり、そのまま会食の予定だ。こちらからは営業本部本部長の立花さん、本間さん、章の三人が出席予定。だから店の手配も、章の仕事だ。
店の確保については抜かりなく。虎丸運送の役員さんの好みに合うよう、日本酒の品揃えがいい店をセレクトしてある。よほど失態を犯さなければ、間違いないだろう。
「さすがだな。会食もその調子で頼むぞ」
「はい」
満足そうに声をかけてくる本間さんに一つ頷いて、章は再びキーボードを叩き始める。
そして、彼は内心でため息をついた。会食があることは事前に分かっていたから、妻に帰りが遅れる旨は連絡してある。だが、懸念事項はそれだけじゃない。
「(はぁー……憂鬱だなぁ、会食。絶対酒を飲まされるんだから……酒、飲めないっていうのに)」
憂鬱な気持ちになりながら、章は見積書を別名保存した。
南條章は酒が飲めない。消毒用アルコールでさえ肌がひりひりするくらい、体質的にアルコールに弱い。飲むなんて以ての外だ。
そのことは会社にも、営業部にも、よくよく話をしてあるから社内には理解されているが、お客様との会食となると、どうしたってアルコールは出てくる。自分が飲まなければいいだけだから、会食に出られないわけではないのが救いだが。
酒が飲めない営業職ってどうなんだ、先方の偉い方々は気を悪くしないだろうか、そう思案していると。
「南條」
「はっ、はいっ」
右方、隣の席から声がかかる。
小さく身体を硬直させながらそちらに向くと、そこでは本間さんがにっかりと笑っていた。
「酒を飲めないことなら気にするなよ、先方にはアルコールアレルギーだって伝えてある。どうせお前の代わりに俺がしこたま飲むんだ、はっはっは」
隣の席から身体を伸ばし、章の肩を軽く叩いて、本間さんは再び笑った。
本間さんが自他ともに認める酒豪であることは、社内では周知の事実だ。ザルという言葉がふさわしいくらいに、強い酒も平気でぐいぐい飲んでいく。健康診断でメタボなことを指摘される以外は、内臓も健康なのがすごい。
本当に、向き不向きというものはあるものである。
「はい……そうですね、ありがとうございます」
そう返して、再びパソコンの画面に視線を向ける章だ。
お酒を飲めないことに対する理解が深まってきたこと、理解のある上司がいてくれること、その二点に深く感謝をしながら、章は新婚の妻に申し訳なさを感じながらメールを送信するべくキーボードを叩くのだった。
仕事が終わって、会食が終わって。
章は西武池袋線の車両から吐き出されるようにして、夜九時過ぎの保谷の駅に降り立った。
「はー……」
今の会社に勤めるようになって三年、この通勤ラッシュにもいよいよ慣れた。
会社勤めを始めた当初は、通勤だけで随分気力を削られたものだが、慣れというのはよくよく、恐ろしいものである。
駅の改札口で交通系ICカードをタッチして、駅を出て、家路につく。普段なら目を惹かれる駅前のスーパーも、今日は目にも入らない。
何しろ、家では愛する妻が待っているのである。
そうして駅から徒歩八分、住宅街の只中に建つ分譲マンションの中に章は吸い込まれていって。
エントランスのセキュリティロックに鍵を差し込み、扉を抜けてまっすぐに自宅へ。そうしてすぐに目の前に見えた、103号室の扉。
鍵を入れて、ガチャリとひねる。
ゆっくり、静かに扉を開いて彼は言う。
「ただいま~……」
と、扉を閉めるよりも早く。
「おかえり~~~!!」
愛する妻が、南條遥が、廊下の向こうから駆けてきた。
ぺたぺたと足音を立てて廊下を駆け、面食らう章に抱き着くようにして飛び込んでくる。
もふっとした感触が、章の頬に触れた。
「わ、ちょ、ハルちゃん、待って、待ってってば!」
「もーーー、アキちゃんってば全然帰ってこないんだもんーーー、寂しかったのよぅーーー」
そう言いながら、遥は太い尻尾をぶんぶんと振りながら、急いで扉を閉める章の頬に顔を擦り付けてくる。
まるで犬のようだと言いたいが、イヌ科だからあながち間違いでもないのが困る。
遥の身体をそっと抱き上げながら、章はその頭に三角耳を現して苦笑をこぼした。
「ほらほら、離れて。変化を解けないでしょ」
「みー」
口を尖らせながら、遥が章の身体から腕と顔を離す。
その可愛らしいもふもふな頭をぽんぽんと撫でて、部屋に戻ってスーツを脱ぎ、ネクタイを外す。
そうしてルームウェアに着替えてから、章はパンと手を打ち鳴らした。
瞬間、足元からぼふんと音を立てて煙が立ち上る。
煙が晴れたとき、そこには先程まで立っていたイケメンで仕事の出来る南條章はおらず。
橙色と白の毛を持ち、腰から太い尻尾を生やし、張りのいい乳房を備えた、狐のメスがそこに立っていた。
このメスの狐が、南條章の本来の姿である。
決して他人には、仕事場には見せられない姿になってから、章は部屋の中でニコニコしながら自分を見つめる遥に、ひしりと抱き着いた。
「あーーーんもーーー、今日もお仕事大変だったよハルちゃーーーん」
「はーいよしよし、アキちゃん頑張ったねー偉かったねー」
お返しとばかりに、遥が章の頭をぽんぽんと撫でた。
この二人、いや二匹は、数年前からこの保谷の町で、人間を装って生活している。当初は女二人でルームシェアをするつもりだったのだが、なかなかルームシェア可の物件が見つからないので、「どうせなら片方男になって結婚して夫婦として生活しよう!」となり、今に至るのである。ちゃんと籍を入れたのは今年の年始だが。
章は先述の通り阿南商材でサラリーマンとして働き、遥は保谷のコンビニでアルバイトをしている。今のところ、お互いにご近所さんにも、職場の人間にも、自分たちが狐と狸であることは、バレてはいない。共通の友人のうち、自分たちと同じように人間じゃない生き物が化けている友人にはバラしているが、これは人間社会で生きていく上で必要なことだ。
ともあれ、ようやく変化を解いてリラックスした状態になれたわけである。章の心労は普段以上に多い。
「もーやだよー、人間の男の人を演じるの大変なんだもんー、女の人のままでいられるハルちゃんが羨ましいよー」
「まぁそう言わずにさー。人間の女の人だって大変なんだよ? ご近所づきあいとか買い物とかそういうのがさー」
遥のもふもふした胸に顔を埋めて尻尾をばたばたさせる章。その章の尻尾に微笑ましい視線を送りながらも、遥は章を撫でる手を止めない。
実際、バイトをしている遥だって大変だ。仕事中も休憩中も術にほころびが出ないよう気を張っていないといけないし、コンビニの仕事は基本的に忙しい。加えて章のように遠方に仕事に行っているわけではないから、ご近所とのやり取りや日々の買い物は遥の役割だ。
章も料理はしてくれるし、家の掃除もきっちりこなしてくれるし、遥も不満は無いが、やっぱりそれでも、大変は大変だ。
「だねー……私たちメス同士だから、子供のことは考えなくてもいいけど……」
「あ、でもほらほら、アキちゃん男の人になれるじゃない? だったらオスのアソコだけ作って子作りってのも」
「しーなーいー! 私はメスのままでハルちゃんが好きなのー! 汚したくないのー!」
章がそう零しながら顔を上げると、にっこり笑いながら遥が鼻先をつついてくる。
揶揄うようなその言葉に、章は大きく口を開けて反論した。子作りとかそういうのは、実際、やろうと思えば出来るが、やりたくない。
部屋から離れてリビングに向かい、夜のバラエティ番組が流れるテレビの前に、二匹揃って座る。
横並びに座って互いの尻尾を重ねながら、遥がおもむろに声をかけてきた。
「ねぇアキちゃん」
「なにー?」
「アキちゃんはさ、すごいよね」
章の、少しだけ大きな肩に身体を預けながら、遥が目を閉じつつ話しかけてくる。
「私と違って性別も変えられるし、お酒飲んでも変化解けないし、通勤電車に乗って仕事に行けるし……私より立派に化け狐してるもん」
「お酒一滴でも飲んだらへべれけにはなるけどね……こないだのバレンタインだって、お酒入りのチョコうっかり貰っちゃって、あとは仕事にならなかったんだから」
うっとりとした様子で話しかけてくる遥の顔を近くに見ながら、章が僅かに目を細めた。
バレンタインデーで貰ったチョコレートを仕事中に食べたらアルコールが微量に含まれていて、即座に真っ赤になってふらふらになったのが、昨年のこと。あれ以来、チョコレートを職場で食べるのは止めた。
「それを言ったらハルちゃんだって、お野菜ちゃんと食べれるし、ご近所さんとすぐに仲良くなれるし、美味しい料理いっぱい作れるじゃない? ハルちゃんだってすごいよ」
「うぅー、どうせなら化け狸としてアキちゃんに褒められたいー」
お返しにと遥を誉めそやす章に、遥が手をかけながらもたれかかってきた。
章もコミュニケーション能力には自信があるが、遥はその上を行く。ご近所さんとも職場の人ともすぐに打ち解けるその朗らかさを、章は羨ましく思っていて。
そんな可愛らしく、愛おしい相手が、今ここに、自分の横にいる。
「ねぇハルちゃん」
「ん?」
それが何だか嬉しくて、章はそっと遥を呼んだ。
まっすぐに自分を見つめてくる遥の額を、軽く撫でる。
「明日も頑張ろうね」
「……うん」
章の優しい声に、遥も小さく頷いて。
二匹は重ね合っていた互いの尻尾を、より深く、密に絡めたのだった。
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