今日でさよなら

　彼女が好きだったのは、所謂ボンド・マティーニと呼ばれるマティーニだった。ジンとウォッカをベースに、ステアではなくシェイクし、オリーブではなくレモンスライスが入るこのカクテルは、映画の主人公が好んで飲むもので、彼が愛した女性の名から「ヴェスパー」とも呼ばれる。
　ぼくも今、最愛の女性を突然喪って途方に暮れ、ただストレートのとろとろとした液体を舐めるように飲むばかりだった。
　あのカクテルを美香はどのように知ったのか。それも考えてみれば年長の男性の存在と結び付けようとすればできる。そもそもこのスパイ映画の起源は旧いものだし、シリーズ中でこのレシピが印象的に紹介される作品にしてももう十年は前のものだ。美香はぼくよりは飲み友達も多かったから、そこで知ったのかもしれない。大体一人はカクテルについて薀蓄を語る奴がいるし、彼女の好奇心旺盛な性格からすれば、バーテンダーから教わったとも考えられる。