小さな旅行者

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小さな旅行者

『第25話 小さな旅行者』 7月某日 月曜日  イアンは、厳しい。  自分に対してはもとより、私にまで…いや、それはやや趣が違うだろうか。順序も逆だ。  彼は私に対して厳しいのみならず、己に対しても厳しすぎるのではないか?  今日はまたイアンと喧嘩をしてしまった。私の身の安全を保障しようとして、そのあまりに己のプライヴェートや生活までをも犠牲にせんとする彼に業を煮やして詰問したのがきっかけだった。 「君は自分よりも他人を大事にするのか?私は君の恋人でもなければ子供でもないのだぞ!」  返ってきたのは納得の首肯ではなかった。あべこべに、ひっぱたかれんばかりの怒声をもらってしまった。 「私は貴方の義弟です!そうしたのは貴方でしょう!?中途半端な情けで契りを()したのなら、貴方も結局は僕を(ないがし)ろにしたんだ!」  と。その理屈の正しさに恥じ入るばかりだ。  そう、つまりは私のせいなのだ。だから今夜も、彼は警備をかって事務所に寝泊まりしてくれるし、その喧嘩からこっち私の皿には塩漬けニシンが(ましま)している…  とはいえ、人の…いや、友の善意というものは誠にありがたい。その得難さは東洋の真珠にもまさるものだ。それを否定するなど、拒否するなど愚の骨頂だ。唾棄すべき傲慢、恥ずべき失態だ。  それは十分心得ているつもりだ。明日はもう少しソフトに彼に訴えよう。柔軟なところの少ない彼だが、心を込めて説得すればきっと分かってくれる筈。  その証拠に、今もこうして同じ部屋で私の向いに、彼のために購入したベッドに横になってくれている。  彼の寝相は、いつも上向きで寝息を立てる。そのかすかな、いびきと形容するには控えめな低い響きを聞きながら、彼と反対側のベッドに休んでいる時、なんとも言えない安堵感に包まれる。  あの時はつい口走ってしまったが、本当に彼が恋人を持てば、きっと同じような印象を受けるのだろう。 7月某日 木曜日  またしてもイアンと喧嘩。流石に大人の男なので手は出さないものの、私たちの立てる騒々しい物音を兎人の耳で遠くから聴いているらしいドロテアまで、そわそわと落ち着かなくなってしまっていた。 「私の健康はもう保証されている。他でもない、君のおかげでね。その君があべこべに体を壊してどうする」や「厚意は有難いが、いつまでも私にかかずらわって青春を浪費するな」など、くどくどしい説教をしてしまった。そういうものとは無縁だと自分では思っていたのに、だ。  そして言い争う。折れるのは私。口喧嘩をふっかけたところで、負けるのも(口達者なイアンに弁論で刃向かうことなどまさしく彼の言う「時間の無駄です!」といった行為だ)決定づけられているなら、流れに逆らわず身を任せてしまえば楽だろう。  しかし、それでもやはり、黙ってはいられない。  目の下に(くま)を作り、例の件以来まだ痩せ細った身体が元に戻らない彼を見ていると泣きたくなる。我が事のように…ではなく。自分のことならばこんな気持ちにはならない。  切ない。そう、これは切ないという表現がぴったりだ。  彼の私に対しての厳しさが、私への温かい気持ちに発しているがゆえの辛さなのだ。  私は彼が愛おしい。こんな風に無理をしてイアンが苦しむぐらいなら、いっそ彼から嫌われたって構わないと思う。むしろそうなるよう仕向けるべきだろうか?  …いや。それは無理だ。  何より私がそれに耐えられないだろう。  愛する義弟に唾を吐かれ顔を背けられるくらいなら、彼の不健康を黙認するという罪を犯している方がまだましだ。しかし…  いやさ、罪に対する堂々巡りの考えは脇に置いておくとしよう。  それにしても、だ。私たちは、なんと不完全なのだろう。神がそのように創りたもうたというのなら、その神はなんと小さきものだろうか。でなければ、このような過ちをするように創造しないはずだ。  こういうときは、ブレーズに相談しても役には立たない。人情の機微については全く関知しない性格だ。  耳に聴こえるようだ、「アホくせえだな。イアンさんの好きにやらしとけばええだに」というティロル訛りが。  この問題を持っていくならば、その先はラウルくんだろう、やはり。こういうデリケートな難問は、あの身体も精神もそれらの及ぼす知性の働きも突出している人生(ついでに言うなら恋愛方面でも)経験が豊富な友人に助けてもらうに限る。  彼ならばきっと、いつものように微笑みとともに、この小骨の多い魚さながらこじれた関係も鮮やかにさばいてくれることだろう。彼ほど上手に魚料理をナイフとフォークで平らげる事のできる男を、私は見たことがない(その点だけでも弟子入りしたいぐらいだ)。  一刻も早く彼に悩みを打ち明けて相談しよう。  しかしこれは、かえすがえすもギムナジウムでの過去を思い出させて胸が甘酸っぱくなる。  互いの事を想い合う。損得抜きに大事にする。それはまるであの懐かしい、少年同士の微妙な友情を基礎にして構築する愛憎関係のようではないか。  そういえばあの頃は、街で見かける可憐な少女達への幼い恋心に胸を焦がし、よく同室の狼人に相談を持ちかけたものだ。  彼はどうしているのか…北方の聯隊にいるという、この間のシュレヒトらとの話では大尉に昇進しているという私のかつての相棒。  昔のルームメイト。得難き親友の一人。  マリウス=ヤブノロフスキーは。 7月某日 火曜日  おお、喜ばしきかな!火曜日。先日イアンとサーカスを観に行った際に見かけた麗しの女曲芸師にまた遭うことができた。記念すべき日!  誰あろう彼女、ジェノヴァのオリエッタ=サジノ。  二回目の遭遇はイアンのお祝いをしたレストランだったが、今日は私がたまたま友人と訪れた、巷で話題になっているサロンに彼女がいた。  もともとクーデンホーフ伯爵夫人がくるらしいとの噂を聞きつけてお邪魔したのだが、かねがね気になっていた夫人におめもじがかなったこともさることながら、私には彼女との運命的な出逢いの方が大きな収穫だ。  テントの薄暗がりの中まばゆいスポットに照らされて自転車を駆っていた艶姿(あの時はピッタリとした(うすもの)一枚を体にまとっていた)も、胸元を開けたドレスでやはり仄暗いレストランの燭台に照らされていた姿も良かったが、今日のように採光のよい落ち着いたサロンで髪を後ろに流したドレス姿でいるのも絵になっていた。  ダミ声が大きくお喋り好きなどこだかの男爵殿から逃れたくて、いかに席を離れようかと思い頭をめぐらしていて、たまさか隣のテーブルにいることに気付かされたときにはさすがに幻かと疑った。  しかも、さらに幸運なことには彼女も、オリエッタもまた私のことを憶えてくれていた。偶然の出逢いが二回目ともなれば当たり前だろうか。 「あら、豆粒男爵さん!お久しぶりだね」  気っ風のいい巻き舌の甘い声。生気に満ちた表情は、すぐさま私達を旧来の知人のごとく結びつけてくれた。  抜糸の跡も生々しい、自由となった我が右手をとってしげしげと眺めては、 「あたしお祖母(ばあ)ちゃんから手相の読み方習ったんだけど…あんた、変わってるわねぇ」  と嘆息していた。  曰く、我が運命線は奇妙なねじれを呈しており、そこから導かれる未来はかなり常人とかけ離れた、波乱万丈と呼べるものであろうということだ。  確かに、彼女のような魅力的な女性と出会える幸運に恵まれている私は稀有な星のもとに生まれているのだろう。守護天使に感謝を! 7月某日 水曜日  指の状態は、筋力が若干衰えてはいるものの大方は元どおりになった。神話の大神の名を冠した月(6月)の始まりに危篤となってから、わずかひと月あまり。この回復の早さはひとえに健康的な生活に依るものだろうと病院の外科医は告げた(急に帰国してしまったラウル君には比べるべくもない、乱雑な出で立ちと腕前だが)。  本日は愉快な1日だった。お茶の時間の前に、パリからまた一人、我が事務所への期待せぬ賓客が訪れたのだ。  最初口を開くまでは(正確には本人ではなく、彼の従者というか家令の一人であるらしい山羊人が紹介したのだが)、玄関先の僅か数段の階段下に佇む虎人が、リブロン君の「神前に居るが如く、彼をして余人に謹厳せしむる」と言っていた弟御、デュードネ=ド=リブロンそのひとであることなど微塵も考えつかなかった。  それほどに、ラウル君とデュードネ君は容貌が似ついていなかった。  兄弟にしてはあまりにかけ離れた二人の外見。太陽と月、火と水のように異なる性質であることは接するより早く知れた。  とはいえ私とても兄上とは外観があまり似ていないので、あげつらうつもりもないが。  背の低い虎人で、小さく丸い頭、ふさりと額にかかる(たてがみ)。全体的に印象は幼いが、眉毛がまるで死神の鎌のように鋭い。  瞳はラウル君と同じ紫紅の宝石。微塵の笑みも無い唇はぽってりと厚く、歳の頃はようよう12を越えようかというあたりに見えた。  それを口に出さなくて良かったと心底思う(なんと彼は、この春で16になったというのだ!)。好感と老獪(ろうかい)さのないまぜになったような印象。  リヴロン侯爵家の家令だという山羊人は、こちらは歳相応の老境にある人物だった(彼のほとんど禿げ上がった頭頂の毛並が、クリスマスのくるみ割り人形に非常に似通っていて笑いをこらえるのが大変だった)。 「お初にお目にかかります。私めはリブロン侯爵家にお勤め致しております、ジョルジュと申します。当方(このかた)はリブロン侯爵家次男、デュードネ=ド=リブロンであらせられます。此方(こちら)は、フェルダー男爵家のお血筋に当たられるマクシミリアン=フォン=フェルダー氏のお宅で間違いありませんか」  淀みなく上品この上ないドイツ語の発音が滑り出す口の上には、雄々しさを秘めた白い口髭がクルリと先端を巻いてあった。  いかにも百戦錬磨らしい微笑───ご婦人方に色目を使う方ではなく、使われる方に慣れたものだ───を貼り付けた老境の家令。むしろ彼のほうが、ラウル君の雰囲気に近しいと感じた。  家令殿は、非の打ち所のない完璧なドイツ語を手繰りながら、疑問系でありながらも確定的な物言いで私の身分と氏名を尋ねた。  こちらがいかにもそのマクシミリアンで、貴君とそちらの紳士は事務所の方にご用意か?それとも、私自身に何か御用なのか?と尋ねると、ようやく用心深げに侯爵家次男本人が階段を登ってきた。  私、山羊人、虎人で並ぶと山羊人の背が際立った。つまりそれほど、その虎人は私と同じく身長的な面で恵まれてはいないという事で、そこでまず第一の共感というか同情というか同病愛憐れむといった(たぐい)で心通わせるものがあった。  家令が安全を確認したと言わんばかりに、若い主人に向かい仰々しく頷く。そして虎人の子供…少年の視界と、私との間を取り払うように脇へ退く。  一連のあの儀式めいたやり取りは、さすが南仏の大領地を治めるに相応しい侯爵家といったところか。  我が家の(家令と呼ぶべくもない)ブレーズならば客人が来るなり床板を蹴って玄関に走り 「おう、おめぇら先生に用だべな?そこにケツ据えて待ってるだよ」  とでも言うだろう。比べても仕方がないが、なんといういう洗練具合(実際この後、応接室でそのように応対したブレーズはデュードネくんに「無礼であろう、下がっておれ下郎めが!」とフランス語で叱責されてしまい、いたく憤慨していた)。  そして私と同じほどに低い身長でありながらも、あの人を圧倒するような存在感は、まさにラウルくんの弟だ。  帽子を取り、兄が世話になっていることを感謝しながらいま一度ラウルくんの実弟である自分の名を告げた。なんとも真っ直ぐすぎる、魅惑的と言ってもいい透徹した意志を感じさせる眼差し。しかしどこか険のある、猛々しさすら漂わせた視線。  デュードネ君は、その目つきだけが幼い外見の中で異彩を放っていた。まだまだ若輩だが、意志の堅牢さと慎みの深さ、思慮の深さは既に老成したものを感じさせる。  デュードネくんは我がつましい事務所のソファを王者のように占拠し、 「突然の訪問に御面会頂き恐縮の至りである。兄上に伺っているが、こちらはかなり繁忙な法律事務所だそうであるな。であれば、要件の向きを単刀直入に申し上げよう。相続と今後の身の振り方を相談するために(ラウル)の後を追って、プロヴァンスの領地よりはるばる(まか)り越した次第」  と話を切り出した。  噛み砕いていうと、どうやらオーストリアでの兄(リブロン君)の行状を御母堂が気になさっているので探りに来た、というところらしい。 「我が兄は己の才能を(たの)みとするところ多く、気儘(きまま)に漂泊を重ねている。しかも勘どころの鋭さは一族でも突出しており、吾輩の来朝もどこからか聞きつけているようだ。既にこのウィーンに居るかどうかも怪しく、そこもとのフェルダー氏の意見、行き先の心当たりを伺いたいのであるが」  と言う。  何やら過保護な気配がするが、言葉の節々から発するところからも、この慇懃さの塊のような少年が兄を敬愛していること、そして兄に対し一刻も早く侯爵家の跡取りとして自覚を持ち身を慎んでほしいと切に願っているらしいことが明らかだった。  身分という舞台上では多少なりと生意気な、ブレーズが彼の言葉で言うなら「あんのチビスケ、ガキのくせに偉ぶりやがって超ムカムカさせられたべ」というような性格をしてはいるが、私はこういった正しい兄弟愛は尊ぶべきであると思っている(私がたまたま唇周りのダマ毛を剃っていたせいで幼顔に見えたらしく、実際の年齢を告げた際に多少驚いていたことは許しておこう。お互い様だ)。  しかしながら、デュードネ君の言う通りだった。残念なことにラウル君本人はパリへ発ってしまった後だ。それもつい昨日に。  それを伝えると目に見えてしおしおとなってしまい、はたからジョルジュ氏が慰めてかかるのがなんとも滑稽。 「そうであるか…うむ、兄とは行き違いになってしまったが、兄と普段から親交の厚いそこもとと相見えて僥倖である。ウィーンはパリと比べとても刺激的であるな」  などなどの社交儀礼を述べて(その間じゅう家令氏は柳の木のような立位を崩さなかった。(いわ)く、「椅子に休めば老体を楽にはさせますが、精神には苦痛なのです」とのこと。いやはや、お堅い!)、私とイアンとしばしお茶を楽しんだ。  とはいえ、デュードネ君は非常に口数が少なかった。もしかしたら他の貴族と(いこ)ったり遊興に出かけることが少ないのかもしれない。  彼の口癖なのか、それとも持ち得るドイツ語がそもそも少ないのか、ラウル君との楽しい想い出につい饒舌になってしまう私に対して 「ああ、そのようであるな」「うむ、それは否定する」  と返すばかり。  あらかたの会話がこの調子で、端々(はしばし)に家令氏の助け舟が必要な体たらく。他人事ながら彼の今後のウィーンにおける社交場での活動が心配になってしまった。  ラウル君ならば。あの重さを感じさせないたおやかで長い脚を優雅に組んで、背筋をぞくぞくさせる流し目にパリ仕込みのエスプリを取り混ぜながらの会話になっていただろう。  彼はそう、この愛すべき小ぢんまりとした事務所を話術と才気のみで一流のサロンに変えてしまうのだ。  それに対しデュードネ君は、両の指を組んで寸分の隙をも見出せない姿勢で座し、微々たる体動もせず、ジェスチュアも仕草も交えず、淡々と語る(というか、応答する。機械(からくり)のように)。  それだけで、ここが閣僚の執務室か謹厳なイギリス貴族の書斎ででもあるかのような雰囲気にしてしまった。  せっかく可愛らしい顔立ちなのだからもう少しはどうだろうかと進言したが、これがまた彼の逆鱗に触れたらしかった。 「二度と同じ言葉を(のたま)いたもうな。しからずば、その唇を引きちぎり、舌を掴んで引っこ抜き、ネズミの餌にするであろう」  とのことだ。うむ、恐ろしい。  普段イアンから「先生はたるみきった手綱のように緊張感が足りませんね」と私にさえその堅苦しさが移ってきたのか、彼ら二人を送り出して先程から肩や腰が重くてだるい。イアンが彼のアパルトマンに着替えを取りに帰ってしまう前に頭のマッサージでもして貰えば良かったろうか。  ブレーズに頼むのは論外だ。彼に任せれば喜んで腕まくりしてやってくれるだろうが、体じゅうの骨や関節を折って倍に増やすつもりかというくらいの力ずくで、こちらは命がいくつあっても足りない。 「トルコ旅行のときに向こうのオヤジにやり方教わったで、本場仕込みだべ?」  というのはその通りなのだろうが、乱暴に押したり捻ったり叩いてくるのでかなわない。  家令氏の渡してくれた南仏からの手土産だという焼き菓子が、これもまた美味だが歯ごたえのきついものたった。デュードネ君の性格といい勝負だと思う。  表情に内心が映らぬよう注意して、紅茶でふやかしながら四苦八苦して食べた。夕食の後ブレーズやドロテアにもやったが、彼らは歯が丈夫なのか喜んでわりわりと噛み砕いていた。  二人の逗留するホテルへの辻馬車を捕まえるまでの合間に、しばらくウィーン見物をしてみてはと勧めてみたが、しばらく考えるように顎をなぞり 「観光…であるか。音の響きは素晴らしい。しかし感動はひとときのもの、やがて薄れて消えゆくもの。吾輩はかつて宮廷さえ持っていた父祖の名誉にかけて、その正当なる後継者である兄を引っ捕らえるために一刻も無駄にはできないのでな」  と、早々にラウル君を追って離朝する心構えを示されてしまった。  やって来た時と同じく、辞するにあたってもデュードネ君の礼儀は作法も言葉も正しかった。  私にはひたすらに堅苦しいばかりだったのだが、そのやり方がイアンには気に入ったようだ。 「彼は非常に好ましいですね。若いながら考えもしっかりしています。あの優柔怪奇、頽廃(たいはい)淫乱なラウルの弟にしておくにはもったいない。リブロン家にもあのような期待の星が立派に輝いていたとは意外です」  と言わしめた。  もっともブレーズは正反対で、台所で洗い物を片付けながら 「ペーッ、おら、あのお方はなんだかお貴族臭さプンプンでいけすかねぇだ。持ってきた菓子はまぁ良かったけんど、偉ッそーだしジョーリューカイキューの見本みてぇで、超絶マジ虫が好かねえだな!」  と舌を出していた。  ドロテアは菓子の美味しさ以外、特に何も感じたところはなかったようだ。  ああ、それにしても首回りから肩にかけての筋肉が凝った。 7月某日 水曜日  新聞によるところ、連日株価が値上がりを続けている。ブレーズは勝ち越しているようで、このところ成金まがいの言動が目立つ。  経済関連にとんと疎い私には何か不気味な気配がして、そろそろ手を引いたらどうだと忠告した。 「まー、調子いいのもいっときのことだべよ。もう今日明日でカブシキからは足を洗うだ」  と意外にあっさりした返事。なんというか、こういう部分でブレーズは非常に大物というか才長(さいた)けたものを感じさせる。  実際いくら儲かったのか訊いてみたのだが、耳打ちされた金額に首と胴がポンと離れるかと思った。なんと、それはそこそこの商会の年商のおよそ三倍にも匹敵しようかという額だった。 「それなら、ウィーンの土地に投資したらどうかね。サロンでも最近では不動産関連の話題でもちきりだよ」  と勧めたところ、 「んー、それはあんまし興味湧かねんだよなあ。いい儲け話だとおらの尻尾がな、こう、ピクピクっと反応するんだけんども、土地関連にゃあさっぱりなんだでよ」  と流された。そんな話を聞きつけたイアンからは 「二人して博打(バクチ)めいた話に興じるとはなんですか、情けない!机上の空論で取らぬ狸の皮算用など、まさに愚行の至りですよ!」  とこっぴどくやっつけられてしまった。  私に彼ほどの資金が手元にできたら、迷わず土地権利に投資するのだが…いや、この考えはよしておこう。  イアンの怒りのほうが、先々の甘い汁を吸う夢よりも私には重大だ。 7月某日 木曜日  朝まだき、デュードネ君が家令も連れずに我が事務所(その時間はただの『家』にほかならない)のブザーを鳴らした。  先日とは打って変わって踏みしだかれた芥子の花のような様子で、(しお)れ乾いて力無い。消え始める寸前の街路灯に照らされたのが幼顔の虎人だと判るまで、一瞬ではあるが手持ちの裁判の関連者の放った刺客かと身構えてしまった。  幼顔の侯爵家の青年は、ひどく気落ちした様子だった。先日来(せんじつらい)居丈高(いたけだか)さはどこへやら、心張り棒を喪ってしまった書割のように頼りない。雰囲気(アウラ)さえ薄らいでしまっていた。  したたか酒を浴びたようで、耳は倒れかけ髭は垂れ下がり尻尾はブランコの状態だった。 「ここは…フェルダーの事務所であろう。少し、休ませるのだ」  その飾りのない横暴な言いように違和感というか、むしろ彼本来の姿を見た気がした。  私は寝間着のまま。イアンは仕事の疲れで寝室でまだ横になっており、ブレーズもドロテアも起きていなかったので、私がひとりで彼を寝静まっている事務所の居間に引き入れた。 「水は要らん酒を出せ」  と言う力無い唇に無理やり水差しを突っ込み 「窒息させる気か無礼者!木っ端貴族めが!」  というのも聞き流してソファに寝かせた。  一体この体たらくはどうしたものかと訊くと、頬を膨らまして舌を出した。その両頬を思い切り横に引っ張ってやって、ようやく話し出したことには、 「吾輩は駄目な弟だ…母上の命を遂行することさえできない」  と、己の失敗を一気に吐露した。  リヴロン家の財力に物を言わせた、連日連夜の金に糸目をつけない捜索にもかかわらず、ラウル君の居所は杳として知れない。オーストリアのみならずパリにまで伝令を飛ばし、デュードネ君自身、足を棒にしてほうぼうを捜していたのも総て徒労に終わってしまった。 「なぜ吾輩は、兄上のようになれないのであるか。吾輩は成長したら兄上のようになれると信じていた…なのに、育てば育つほど己の劣り具合をつぶさに見る羽目になる!」  ランプの明かりの下、幼い顔を絞るようにして語る虎人は、本当に子供のようだった。 「容姿も!勉学も!ダンスもテニスも詩も、優雅な会話も豊かな人脈も、何もかも!兄上だけが実現してしまう、私には敵わない!絶対に、追いつけないのである‼︎」  小さな胸の裡に秘めてきたのだろう懊悩(おうのう)を、ありのままに取り繕うこともなく吐露する姿。蒼い涙の大粒を生みながらソファにのたうつ姿のいとけなさ、いじましさが私の胸を打った。  なぜなら、私もまた同じだからだ。  私も、私の兄上のようになりたいと思うことがあった。大きく、強く、逞しくなりたいと願った。(デュードネ)ほどにではないが…  彼が私と違うのは、私にはクラリモンドや数々(かずかず)の友人達、それに今はイアンがいてくれて、己を肯定することが容易いということだ。  弱いままでもいい、泣き虫でも仕方がない。それが私。マクシミリアン=フォン=フェルダーという人間なのだと、幼少期から現在に至るまで悟り続けてきている。  しかしデュードネ君はどうだ。彼は、自分の思い描く理想、それに母御や周囲の親類縁者から押し付けられた範疇(はんちゅう)に自分を嵌め込もうとしてばかりで、きゅうきゅうとしている。  自己否定は、人間の大罪。自分自身を損なう最大の罪だ。  だから私は、私にできる単純で根元的なことをした。  ソファに腰を移して彼を抱きしめ、ひたすらに彼を肯定した。なぜなら… 「なんのつもりであるか?貴様、貴様ごときがこの吾輩に慰撫を与えようというというのか?昨日今日知り合っただけの分際で」  と、しゃくりあげながら逃げようとする彼を、なんなく抱きとめることができた。 「そうさ。たかが私。ちっぽけな私だよ。けれどデュードネ、君のことを放っては置けない。君がなんとなく好きになってしまったからさ」  断言できる。彼は、それに値する少年だと。  しばらく私の腕の中で泣いた後、スッキリした様子で彼は帰っていった。あれならばもう心配はあるまい。  私が珍しく早起きだと降りてきて驚くイアンにもこのことを話したところ、なぜか 「先生…あなたは、とんでもなく鼻持ちならないですね」  と睨まれてしまった。  イアンとデュードネ君は反りが合いそうだから、仲良くすればいいと勧めたのだが、さらに物凄い表情で 「誰でも彼でも優しくするなんて、愚かな振る舞いです。歳というものを考えて下さい」  と叱ってくる。確かに、やや偉そうだったのかもしれないが…あんな風に傷つけられてきた年若い相手を冷たく突き放すほど私はにはなれない。  だから冗談で「じゃあ私はこれからは君にだけ特別優しくしよう。それでいいだろう?」と笑っていたら、何事か呟きながら赤い顔で出て行ってしまった。  まさかあんなに怒らせるとは…しばらくほとぼりを冷ますとしよう。 7月某日土曜日  今日は失態を犯してしまった。頭に血がのぼるのに任せ、デュードネくんを強く叱責してしまった。それに二日酔いで地獄のように頭が痛む。  今落ち着いてこれを書けるのが冷静に立ち戻った証拠。まったく、返す返すも腹立たしい。  イアン本人からさえ 「なにもそんなにお腹立ちにならずともよいでしょうに」  とたしなめられる始末。  今回の顛末(てんまつ)はこうだ。   先日の来訪について、時刻が非常識であったこと、自分が酔いどれであったことなどの非礼を詫びる…という形の再訪だったが、その実ジョルジュが謝罪の全文を代弁した(それが非常に可笑しくて噴き出してしまった)。 「何が面白いことがあるというのであるか。吾輩が折角、こうして多忙の合間に頭を下げに来ているというのであるのに」  デュードネ君の隣のジョルジュも苦笑を咬み殺す様子を隠しもしない。まったく、強情で頑固な少年だ。とはいえ、鼻を鳴らしブレーズの振る舞いに文句をつけながら紅茶を飲む様子はまだ可愛げがあると言えた。  しかし問題はその後に起こった。  会話の流れで軽く諍いめいた冗談を飛ばしつつも、イアンと、彼のフランス時代のことをラウル君から聞いているらしいデュードネくんとが数言交わすうち、なんのきっかけかは忘れたがデュードネ君の方がイアンの出自を蔑視するような無用なことを言ったのだ。  しかし私にも非はある。それについて訂正を求めるならば、穏便にすべきだった。  ましてや年若く、まだ世間のなんたるかも、他人に対する礼儀の真髄も知らぬデュードネ君に思わず声を荒げてしまうとは…  幸いデュードネ君本人が私の意を汲んでくれたため、決闘云々の大事には至らずに済んだのは幸いだったというほかない。彼ほどのプライドと身分の高さをもってすれば、そうなってもおかしくはなかったのだから。 「マクシミリアン殿、貴公の意を害するつもりではなかったのである。許すがよいのであるぞ」  科白は高慢だったが表情は私に陳謝していたように思う。よほど私が激昂していたのだろう。ジョルジュのとりなしもあり、後日改めてホテルで午餐をともにすることを約束した。 「吾輩達は明日の夜にもフランスへ出立する。今回の兄の身柄確保は失敗したが、いずれ網にかかる筈であるからな」  とは、なんとも物騒なことだ。この兄弟の追いかけっこは当分続きそうだ。  去り際、事務所の階段下で、今回は握手ではなく抱擁を交わした。しかも彼の方からだ。  見ていたイアンがそれについて 「随分とまあ態度を軟化させましたね。あの貴族の慇懃無礼さを煮詰めて薄めてまた煮詰めたような性格のラウルの弟を」  と言うので、 「私の人徳のなせるわざだな。それに彼はきっと寂しかったんだよ。歳が離れていたとしても、友人が必要だったんだ」  と返す私の理論を彼は呆れたように眉根をそびやかして 「彼が先生を見る目付きも、先程の抱擁もお分かりにならないなんて、いやあご立派な観察眼ですね」  と茶化してきた。よく意味が分からないと正直に尋ねたのだが、なぜか腹の立っている時のように無視されてしまった。やれやれ。  今度はイアンの機嫌をとらなければ。私はよくよく歳下に振り回される星のもとに生まれついているらしい。  しかし。それにしてもデュードネ君のあれは、あの居丈高さは自己防衛に根ざしているのだろうか。私にはそう感じられるのだが。  ある種の動物は、敵や危機に際して己が身を膨らませ、自分の実力を強調する。子供の頃にいじって遊んだカエルや野良猫もそうだった。  もちろん我々人間は野の動物とは違うが、それでも自己防衛の本能は同じだ。そして、自分に確たる自信があれば、そんな必要などないのだ。  デュードネ君は無意識のうちに、彼の兄であるラウル君と己とを比較し自分を劣っていると勘違いしていたのだ。それによって他者へ突っかかるような態度をとってしまうことが常態化し、それがつまりあの傲慢さとして発揮されているのではなかろうか。  考えてみれば、リブロンくんはおよそ大貴族らしからぬ立ち居振る舞いをしている。ブレーズのような庶民を相手にしても、遣うべき時には気を遣うし、年寄りにはそれが浮浪者であっても敬語で話す。  あれは彼が才覚・身分・人格いずれもあまりに恵まれていることによる自信の表れかもしれない。  従者も()けず案内も伴わず、平民のようにいとも容易く至る処へ出入りする。これは身分ある者としては相当に危なっかしい。  かてて加えて、その一族含め後援者(パトローネ)を取りまとめる家の長であれば尚更だ。  兄上だってマネージャが常につきまとっているのは身の安全を図るためでもあるのだし(ここへ来るときには独りでいたいからと、かなり以前から同行を禁じているが)、貴族でなくとも富豪であれば単独での行動など不用心というものだ。  なんといっても、ここは愛すべき、恐ろしい、ときに優しくときに残酷な魔都ウィーンなのだから。  しかし慣れとは恐ろしいもので、私はこれまでラウル君の自由とその不自然さに全く勘付いていなかったのだ。それをあらためてイアンに吐露すると 「そういえば、ソルボンヌにいた頃から彼は家令はおろか一切の従僕をつけず、自由行動を好んでいました。…私も先生に言われるまで、不思議に思ったことがありませんでしたが」  と追随した。 7月某日 日曜日  デュードネ君、三度(みたび)の来訪。どうやらラウル君の足取りがふっつりと絶えてしまっており、このままフランス行きの旅路についたところでまた行き違いになるのではと思ったそうで、しばらく逗留するとのことだった。  あまりに気の毒だったのと、ちょうど案件がまとまって落着したのとで、ロシア大使の公邸で催される就任祝いの舞踏会に誘ってみた。  初めは「ロシア?とんでもない。あの国の怪しげな雰囲気に馴染める気がしないのである」と固辞していたが、ラウル君の知己は東方にまで及んでいることを教えると素直についてきた。  四人乗りの馬車を仕立て、デュードネ君と家令氏、私とイアン、おまけに珍しく暇をかこっていたブレーズ(は、馭者台に便乗させて)という組み合わせで舞踏会に参じることになった。  新任の大使夫人は純白のドレスに髪を高く結い上げ、やや厚化粧ながらよく笑う福々しい女性。大使本人は反対に痩せ型で頼りなく、少し卑屈に見える。そして、奥方もそっちのけにしてあちこちで高官とヒソヒソ話に興じていた。  私の今宵のダンスの相手には、クロスドリデン商会の役員令嬢と、ポーランドの豪農…もう忘れてしまった…氏の姪御がつとめてくれた。  二人ともエネルギッシュで、令嬢は正確なステップを踏む小柄な竜巻、姪御殿は暴れ馬のようだった(数えるのもいやになるくらいつま先を踏まれてしまった)。  休憩のフリで退散する途中、目を回して危うく倒れかけたが、イアンがすかさず肩を支えて助けてくれた。彼も葡萄農園主の一人娘というお嬢さんと一曲お手合わせをしたらしい。そのお相手は、癖のない金糸のような髪の美しい乙女で、無骨な彼とはまさにお似合い。  遠目に眺めていた感想を、二曲踊って帰ってきた彼に 「素晴らしい。一幅の絵画のようとはまさにこのことだな」  と漏らすと、イアンはやけに恐縮していた。  デュードネ君にもわずかな収穫があった。ラウル君はどうやら真っ直ぐ故郷には向かわず、オーストリア領内を転々としているらしい。 「あのように目立つ奇人が隠れおおせようなど、どだい無理なことですよ」  とイアンは笑っていた。もしかしたら私やデュードネ君より、イアンに追跡させたら手っ取り早いかもしれないが、 「冗談でも僕にそんなことは仰らないでください。あの鼻に付く虎人を探索することに時間を()くなら、砂漠に井戸を掘る方がまだましだ」  と怒られてしまった。やれやれ!  夜風にでも当たろうとテラスに出ると、ぐったりしたデュードネ君と介抱する家令氏にでくわした。  彼もまた私と同じように踊り疲れたのかと思いきや、慣れない人いきれに酔ってしまい、避難していたとのこと。  気分直しにワインでもいるか、それともシガーがいいかと尋ねると 「いいや。その両方は判断力を鈍らせる。先日で懲りたのだ。よって、固辞させて頂こう。…ご厚情には感謝を」  と蒼ざめた顔を横に振る。どうやら嗜好品に対しての謹厳さにかけてはイアン以上に持ち合わせている青年だ…とも思ったのだが、山羊人の老家令氏が 「デュードネ様は繊細で、酒精や煙草などの刺激物がお身体に毒なのです。珈琲もお召し上がりにはなれないのです」  と悪戯っぽい笑顔で教えてくれた。  体質ならば致し方ない。私には(さいわ)いそういった嗜好品も受け付けるようできているが、酒と煙草と珈琲を拒む身体であればサロンやパーティで身の置き場がなかろうというもの。  そういったものに溢れているこのような場所では、二日酔いのように酷く気分が悪くなるらしい。  家令氏が気を遣って彼と二人きりにしてくれたので、気晴らしにしばらくテーブルについてあれやこれやと話を聞いた。  彼の手を取り、時折脈などみながら打ち明けられたその内容とは、とどのつまりはこれ総て(ラウル)に対する(デュードネ)の愚痴だった。  大のつく貴族、南仏一帯を支配しかつては宮廷を持っていた侯爵家に男子として生まれ、兄弟ははじめから家督にまつわる諸々を背負わされていた。だが学力も品格も容姿も兄の方が弟よりはるかにまさり、弟である彼の唯一兄より認められた点は家系に対する忠誠心より他には無かった。  それはデュードネ君には辛いことだったらしい。せめても兄に疎まれるほどの才覚があれば、虚しさからも解放されたのだろうが…  貴族の家に関わるこういう話を聞く度に、我が家の、兄上と私の関係は珍しいのだと実感する。私達の間には1グルデンの隠し事もなく、生まれの後先による嫉妬も微塵もない。爵位に誇りを持ってこそすれ、それを重荷に感じたことは一度とてない。 「僕は、兄上が羨ましい。そう考えるとますます自分自身が情けなくなる。僕に兄上ほどの才覚があれば、我がリブロン家を一地方の貴族から一国を統べる王家にまでのし上がらせてみせるのだ。きっと、そうしてみせるのに」  どうやらデュードネの両親、特にその御母堂側の方が積極的に彼に皇帝教育を施し(あくまで反抗に徹したラウル君を諦める代償として)、跡目を継がせることに血道をあげていたようだ。…しかしその成果というか結末というか、デュードネは正しく育ちすぎたのだろう。  彼は、心底から兄を敬愛し、思慕し、その君臣たりえたいと望んでいるのだ。それ以上のものを望んだりはしていない(その本人であるラウル君は両親も見離した自由人なのだが)。  分をわきまえる。己の力量を正しくはかり、それに準ずることのなんたる難しさ!若くして家名に殉ずる決意のなんたる悲壮さ!  忠実な、あまりにも切ない兄弟愛!片恋にも似た…  正しくあれ、賢くあれ、尊大であれ。そう範を垂れる母親からの強制は、まるで荒れさかる嵐雲がやわらかな野原に電撃を落とすように、彼の心身を滅多やたらに攻撃したのだろう。  そのために本来健やかであったはずの少年らしさも子供らしさもひび割れ砕けて、魂の活力を失い病んでしまったのだ。  ブレーズや身分が下のものに対する威圧的な言動は、彼の病理から発する虚勢というわけだ(私は心理学とやらには疎いが、これは分かる)。  不安症、対人恐怖症、赤面症、広場恐慌などなど、デュードネ君の抱えるものは多岐に及ぶらしい。  あのフロイトなる大流行作家なら、もしかして彼の心の病巣を透視して切除できるのかもしれない。 「お笑いであろう。僕は兄のようにはなれない。度胸も才覚もない、貴族なのだ。他人の前では虚勢を張っていなければ崩れてしまうような、不安と恐怖の哀れな下僕(しもべ)なのだから…」  そう言う彼に、哀惜や憐憫の情で接することが憚られて、私はなんとなくテーブルに突っ伏していた彼の頭に手をやった。 「君にそんなことを言う権利は誰にもない。君は良い弟だよ。私が保証する。(いわ)れない非難などもし受けたなら、私の許へ来たまえ。私が責任を持って打ち負かし粉砕してやろう」  すると急に、雷に打たれたように体を震わせた。そして大きな目をやたらに見開いて私を見上げた。 「なぜ、貴公は僕にそんなに良くするのだ。何が狙いだ?」 「私の狙いは、君の心の安らぎだ。私はね、君のように真っ直ぐな人が苦しんでいることがイヤなんだ。そういうシーンは見ていたくないんだ。見ていられないのさ。胸が締め付けられて私も苦しいし、まぁ、所謂(いわゆる)私自身のエゴだろうけどね」  片方の手で脈を取るのもやめて、私は両手で彼の手を包んだ。震えるそれは、とても小さくか弱く思えた。 「そんなことを言うのは、爵位に目が眩んでいる輩である。でなければ、見返りもなく好意を示すなどあり得ないのだ」  と吐き捨てるように言った。それは彼の本心ではなく、そのように育ててきた教育方針の賜物なのだ。それも悪いほうの。  だから私は正直に言った。「見返りならば、勿論あるさ。君が楽になる。そうなってくれたら、私も有難い。それがこの場合の私の利益だな」と。 「何が有難いものか。嘘を吐くな」  と言う彼は苦しげで、もう少しだけ私も素直になって「君が弱音を吐いたのは、二回目じゃないかね?」と尋ねた。  幼顔で(まあ私もそうだが)、実際ひと回り近く歳の離れた虎人が、虚をつかれたように頷くのは正直好ましいものだった。 「ありがとう。光栄だよ」  赤の他人の私などが、大貴族から本心を聴けて…と続けようとしたら、またしても彼は泣き崩れてしまった。平素の傲慢が跡形もなく消え去り、声を上げ頭を上げ、激しく号泣することは先日にも勝り…こちらの胸にひしとすがるようにする姿は本当に年端もいかぬ少年そのものだった。  本当にびっくりした。あんな泣き方は兄上の舞台でも見たことがない。この上もなく純粋な泣き様。少なくとも、分別ある貴族のものたり得ない。  私が呆然としていると、やにわに 「あー!泣ーかした泣ーかした、先生(セーンセ)ーがー泣ーかした!」  と歌うような声がして、茂みの中からだらしない格好のブレーズが現れたので肝をつぶした(察するに、召使いに言い寄ってしけこんでいたようだ)。  必死に弁解するも、デュードネ君は泣きやまず、遠くから様子を伺っていた家令氏も慌てふためき、騒ぎを聞いたイアンまで駆けつけて 「先生!いたいけな少年をいじめたのですか⁉︎」  となじる。普段冷静なイアンが掴みかからんばかりであったので、あの時ばかりはさしもの私も冷や汗をかいた。  この日記を書いていても脇が濡れてくる。あのイアンは、恐ろしかった。  なんとか事の成り行きを説明して弁解するだけで許してくれたが、(とが)なくして罪を問われたものの気持ちがまざまざと理解できた。これもまた一つの経験だろう。  しばらくしてデュードネ君は泣き止んだが、それから不意に席を立って、今宵の楽しみを台無しにしては済まないからと先にホテルに帰ってしまった。  私の何かが気に障ったのだろうか?イアンも急に黙り込んで、険しい顔つきでデュードネを見送っていた。 「私は何か間違っていたのかな?フランス式にはどう慰めたらよかったのかね?」  とイアンに聞いてみたが 「先生、貴方は彼に…僕のみならず…」と言葉を探してから「とにかく、誰にも彼にも甘くされ過ぎは感心できませんね」と怒られた。  意味がわからないので更に深く突っ込んで訊いたが、段々に不機嫌になっていき、しまいには黙り込んだ。  なぜ私が怒られなければならないのか、さっぱり分からない。  ブレーズなどは 「あいやー、先生はけっこう男タラシだべなあ」  とニンマリしていた。なぜかこの乱雑な犬人らしくなく 「イアンさん以外のお方に、あんまりええ顔をするのも考えもんだでよ」  というような遠回しな言い方をしてくる。訊いてみたがはぐらかされた。私がデュードネ君を泣かせることとイアンの不機嫌とが、何らかの因果関係があるらしい。が、これ以上考えるのも疲れてしまった。  次に会うとき、デュードネ君が笑っているといいのだが。  7月某日 月曜日  意外にも早かった。デュードネ君は朝に事務所を訪ねて来て(それも、家令氏を伴わずに彼一人で!)、昨晩の無礼を詫びた。  彼は憑き物が落ちたように爽快な顔つきをしていた。これで安心。もうその件については忘れることにしよう。 「あの僅かな時間、四半刻にも満たないものだったが、僕のそばに貴公が居てくれたことは僕の救いとなったのである」  と私の目を真っ直ぐに見て言った。多分このとき初めて彼は、私と瞳を合わせて話してくれたのだと思う。 「私が君に何がしかの影響を及ぼしたとしたら、それは君の内に元からあったものだよ」  と伝えると、彼はひどく驚いた様子になった。 「そうか…そうでもあるな。うむ。そうなのだ」  彼が何かに病んでいたのは確かだ。家柄、責任、誇り、もしくはそれ以外か、あるいはそれら全てを含めて。  しかしそれは終わった。過ぎてみれば、苦悩こそが人間を成長させるという昔ながらの諺の通りになったわけだ。  デュードネ君は傷つき、苦しみ、しかしそれらが研磨して彼を成長させたことだろう。 「しかし貴公は、僕の薬役となってくれたのだ。それは間違いない事実である。僕にとって貴公はしかるべき…」  言い淀み、なにごとか言いかけて、彼は気恥ずかしそうに右手を差し出してきた。 「僕の、友人になってはくれまいか?たまにでいい、話し相手になって欲しいのである」  初めに来訪した時の、木っ端貴族を見下げる傲慢さからは想像もできない遠慮がちな申し出に、私は彼の手を思い切り引っ張って抱擁で答えた。  私とほぼ同じ身長の彼は思った通り抱き心地が良く、胴に回した腕も丁度良い具合だった。  必要なときにはいつでも話し相手になるさ、好きな時にここに来ればいい、と教えると、まるでおねだりを聞き入れられた子供のように微笑む。申し訳なさを含ませる表情だったので戯れにいい子いい子をしてやると、今度は怒る。青春期における感情の起伏とは激しいものだ。  また必ず(まみ)えると、再会の約束をして別れた異国の幼き紳士。いつの日にか、彼が敬愛する兄をも超えて貴族の重圧と責務に耐えうる精神の強さを手に入れることを祈る。ささやかながら、私もその手助けになろう。
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