2017人が本棚に入れています
本棚に追加
/128ページ
夕食を終え、片付けも一段落した頃、琴莉と隼人はリビングで顔を突き合わせていた。
食後のコーヒーもすでに飲み終えている。琴莉は互いのコーヒーをもう一杯淹れるために立ち上がろうとすると、隼人に腕を引かれる。
「先に話をしよう」
「……はい」
逃げようというつもりはなかったが、少しでもこの緊張感を緩和したかった。というのも、先ほどから隼人の目が怖い。
別に睨みつけられているわけでもないのだが、考えていることを全て読み取られるんじゃないだろうかというほどの鋭い眼差し。こんな目で見つめられると、壁際に追い詰められたかのような息苦しさを感じる。
「普段は潔いまでにスッパリしてるっていうのに、偶に怖気づくよね、琴莉は」
視線を多少和らげ、隼人は小さく息をついた。まるで迷子のように覚束ない琴莉の様子を見て、隼人は場所を移動する。すぐ隣に腰を下ろした隼人に、琴莉はビクリと肩を震わせた。
「隼人……」
「そういう顔してもダメ。琴莉の気持ちをちゃんと聞かせて。正直な気持ちをだよ」
子どもを諭すような口調でそう言うと、隼人は琴莉と視線の高さを合わせた。琴莉の真意を見抜こうとでもするかのように、瞳をじっと見据える。
ともすれば琴莉の方がしっかり者のように見える二人だが、なんだかんだいっても隼人の方が七歳も上だ。本気になれば敵わない。
元々逃げる気も嘘をつく気も露ほどもないが、琴莉は諦めたように吐息をつくと、隼人の胸にポスンともたれかかった。
「今の仕事が楽しい」
「うん」
「隼人のサポートはやりがいもあるし、充実してるんです」
「そうだね」
「でも……」
顔を上げると、隼人が優しい笑みを浮かべていた。それを見て、どうしてだか泣きたくなってしまう。
隼人は最初からわかっていたのだ。琴莉の答えを。
「恭子さんは、琴莉の憧れだもんね」
「はい」
「その恭子さんからぜひって言われたら、受けたいよね」
「でも、それだけじゃなくて」
泣きそうになっている琴莉に隼人は目を細め、頬に手を添える。親指でするりと撫でると、肩がピクッと上がった。それと同時に頬が熱くなっていくのを感じ、隼人はたまらず琴莉を抱き寄せた。
「研究所での仕事にも、魅力を感じたんだよね」
「……はい」
消えてしまいそうなほどに小さな声がする。琴莉はまだ自信が持てないのだろう。本当に受けていいのか、受けるべきなのか、自分の決断は間違っていないのか。そんな気持ちが手に取るように伝わってくる。
隼人は琴莉の背中をポン、ポン、と規則正しいリズムで優しく叩く。大丈夫だよ、という気持ちを込めて。
「恭子さんに言われてやむなくってわけじゃなく、ちゃんと自分で行きたいって思ったんだよね?」
念を押されるように確認され、琴莉は一瞬惑う。だが次の瞬間にははっきりと身体を上下に揺らした。
隼人は琴莉にはわからないよう、空を見つめて目を閉じる。自分の中の我儘が溢れ出すのを阻止するかのごとく、琴莉を強く抱きしめた。
「なら、僕は琴莉を応援するよ」
「え……」
腕の中の琴莉が視線だけ上げてくる。本当は顔も上げたいのだろうが、隼人が抱きしめていてそうできない。
隼人は背を丸め、琴莉を覆う。そして、聞こえるか聞こえないかのギリギリの音量でそっと呟いた。
「寂しいけどね」
琴莉は隼人の背に腕を回す。そしてぎゅっと力を込めた。
嬉しかった。隼人も同じように思ってくれたことが。
異動の話は正直戸惑いの方が大きい。だが、仕事内容を聞いて心が惹かれたのも事実だった。やってみたいと思ってしまったのだ。
しかし、隼人のサポートを離れることになるのが嫌だった。毎日が楽しくて充実していて満たされていたのだ。隼人の側を離れることを寂しいと感じずにはいられなかった。
最初のコメントを投稿しよう!