「はい」

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「はい」

※ 「新谷(あらや)君、まだその本読んでるの?」 「暇なんで」 「とっくに、もうないと思ってたわ。だって新谷(あらや)君がまだ新卒の頃にあげた本でしょう?」 「二十二だったんで、十六年経っても全部頭に入ってないです」 「やだ、流石にそれは覚えた方がいいわよ」 「読んだ横から花と内容がぶれてくんですよね」 「まあ、興味ない人には仕方ないわ。私だって未だにお父さんの好きな野球のルール、覚えてないもの」  朝の出棺はなく、今日は通夜が一件だけだった。早めの出勤にして事務所で暇を潰していると古株の同僚と二人だけとなった。  この葬儀社に入ったその前から勤めている彼女は年齢もあって当時から自分の親とかわりなく、まるで知識のない自分にあらゆることを教えてくれた。勿論他の諸先輩もそうではあったが、彼女には職務内容以外のものもも教わった。それはその後の職務中幾度となく役立ち、この年になって彼女の有難みを痛感している。若い内にも酷い世間知らずを晒さなかったのは、彼女の教えに他ならない。  新卒で入社した頃、供花の見分けも名前すらもわからなかった。なにを多めで揃えてなんて言われようものならパニックにもなった。花は花、その名前などわかるはずもなかった。  見兼ねて、かはわからないが、彼女はそんな折に花の本を数冊くれた。この仕事で苦労しない分だけ、と言っても三冊、当時の自分にはそれでも荷が重かったが、休憩時間に流し読みをするだけでもその知識は役立った。花に悩む遺族に助言も出来た。こればかりは、本当に勉強をしなければ知識が追い付くことはなかったはずだ。  そんな本を、後生大事に十六年経っても尚読んでいる。未だに頭に入りきらないのは元々で興味がない所為であろうが、なにもしないよりマシだった。このほんの数分の流し読みで今後大きな役に立つ時が来るのを、もう経験している。 「良かったわ。一時期結構心配したのよ。もう、続かないかもしれないと思ったもの」 「すいません。まあまあショックがデカかったです」 「仕方ないわよね、知ってる人だったんじゃ、私だって手が止まっちゃうと思うもの。私達の年代だってそろそろよ、ばたばた続いちゃうの。もしかしたら私もそんな日が来ちゃうかもしれないわよね」 「その時は俺が役立ちます」 「あんなに細っこい子だったのに、そんなこと言えちゃうくらい大人になったのよねえ。そりゃあ私も歳とったわよねえ」  自分よりも二十上な彼女は品の良い声でそんなことを言ってしまう。姿勢の良さも身だしなみの隙のなさも職業柄ではあろうが、性別を超えてその振る舞いには憧れがあった。十六年、気が付けば恐ろしい年月が過ぎていたが、未だ自分が当時の彼女の域にも達せていないことを考えると未熟さに憂鬱になる。そんなことを漏らそうものならきっと「男の人は女の人より落ち着くのが少し遅いのよ」と言うだろう。いつか同僚にそんな小言を言っていたのを覚えている。  静かなやり取りの合間にスマートフォンの画面が光り、メッセージの受信を知らせた。「恋人?」と聞く彼女に対して素直に「はい」と言えたのは、今日が初めてのことだった。
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