775人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
12月某日。慎がつぐみの為に杵淵を殴ったあの日から3週間近くが経過していた。
慎はその日も講義前の僅かな時間、つぐみに会いに来ていた。
つぐみが「トイレに行くからもう先輩も戻った方がいいですよ」と言って席を外すと、慎はつぐみの鞄の中から勝手に彼女の携帯電話を取り出した。そして暗証番号を入力する。つぐみの誕生日だった。
その様子を見て周りにいたつぐみの友人達はさすがに引いていた。最近では慎は彼女達とも会話を交わす程度には交流をもっていたが、一同は揃って、この人超イケメンだがちょっと危ない人だ・・と思い始めていた。奈江が遠慮がちにではあるが優しく咎めた。
「・・先輩。いいんですか?勝手につぐみの・・」
奈江がいい終わる前に慎は「いーのいーの」と言って聞いちゃいなかった。着信やメールの履歴を調べていく。
慎が恐れていたのはまた性懲りも無く杵淵が連絡してくることだった。「亜衣とはちゃんと別れたからやり直そう」とかあのクズなら平気で言ってきそうだし、お人好しのつぐみがまたそれを受け入れてしまうのではないか、それが心配だった。
慎はもう絶対誰にもつぐみを渡さないと心に決めていた。俺が一番あの女を想っているのだから。
携帯に怪しい履歴がない事を確認した慎は、今度は鞄の中身を調べ始め、そして動きを止めた。
「おい奈江、見ろよ。普通生理用品剥き出しでいれるか?あいつの女子力、崩壊してるにも程があるだろ・・」
そう言ったところで戻ってきたつぐみが、
「やめんか!」
と派手に慎の頭を殴ったのであった。
「お前な、あれはないぞあれは。普通ポーチに入れるだろ。ポーチって知ってます?」
そう小言を言う慎に対しつぐみは面倒くさそうに答えた。
「わぁかってますって!たまたまポーチが壊れてたんですよ!てゆうか人の鞄を勝手に物色しないで下さい!」
ストーカーだろ!とつぐみは半ば本気のツッコミをいれた。
怒るつぐみに慎は言った。
「・・じゃあ買ってやるから、一緒に行く?今日・・」
そう言った慎は緊張していた。今までつぐみに期待したとき、期待通りの答えが返ってきたことはほとんど無かったからだ。
つぐみは一瞬間を置いてこう言った。
「・・あー、今日バイトあるんですよね」
「ふーん、あ、そ・・」
慎はいつもの不機嫌な表情でそう言って先を歩いた。その後ろ姿につぐみが思わず声をかける。
「明日はどうですか?いや、自分で買いますが、先輩が暇なら付き合って貰えませんか?」
それを聞いた慎はつぐみの方を振り向いた。しかしすぐにまた向き直ると無表情のまま言った。
「明日ね。大丈夫だけど」
・・新入生の頃には絶対に分からなかった、僅かな変化。今のつぐみには分かるのだ。無表情を装っていても、慎はわずかにはしゃいでいた。
(なんか妙にかわいいんだよなぁ・・このひと)
学内でも名を馳せたプレイボーイが、 自分なんかとデートの約束をして一体何がそんなに嬉しいんだか。つぐみは思う。 " 野良猫を手懐けた気分 " とはこういうことを言うのであろうか。
不器用でわかりにくい、デリカシーは皆無だし、プライドが高くて怒りっぽい。そのくせ繊細で傷つきやすい。本当に面倒くさいけど、さっきみたいな反応を見るとついこの人を喜ばせたくなってしまう。
慎には杵淵の一件での恩もある。つぐみにとって大切な人であることは間違いないが、これが恋なのかと言われるとちょっと疑問だ。どちらかと言うと「わがまま王子とその従者」と言ったほうが、 しっくりくる気がする。
慎の想いを受け入れる程まだ自分の気持ちに自信がない。かと言って、この人を傷つけたくはないしむしろ喜ばせたいと思っている。矛盾しているように思えてつぐみは自分の気持ちを完全に持て余していた。
問題は別にもあった。
先日つぐみがサークル活動に参加した際、部室のロッカーを開けると一枚の紙を見つけた。
それを手に取りつぐみは目を見張った。それは雑誌などの文字を切り貼りして作られた、いわゆる怪文書だった。
" 一ノ瀬と別れろ "
そう書かれていた。
つぐみは思わず頭をかいた。いや、付き纏われてるだけでまだ付き合ってないんですけど。そうツッコミながら。
つぐみの最近の悩みは、とりわけこの一ノ瀬慎という人物のことで埋め尽くされていたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!