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あわいの世界に飛び込むきっかけは、就職活動だった。
大学生活最後の冬。私は必ず雇ってもらえると信じ、面接に挑み続けていた。友達は全員内定が出て卒業後の行き先が決まっている。前向きに履歴書を送ったが、就職先が見つからない不安は常にあった。
そんな私を救ってくれたのが八郎だ。あわいの者が訪れるカフェ“ランタン亭”へ住み込みで働かないかと誘われたのだ。
断る理由はない。夢のような話に二つ返事で就職を決め、私はあわいの世界へ一歩を踏み出した。
ランタン亭は山間の、木漏れ日が遊ぶ前庭の奥に建つ。古民家を改装しており、一階が店舗で二階が生活スペースだ。私は軽自動車を前庭の隅に停めると、膨らんだ買い物袋を手に「本日終了」の札が下がる木製の引き戸を開けた。
店内は異界の光景が広がっている。優しい光に満ち、数多のランタンが銀河を作り出す。蒼、翠、橙。あらゆる色彩が手を取り合い、癒やしの煌めきが訪れる者を包む。
ランタンの内側には店主の八郎が魔法で集めた光源が収められている。地平線に落ちた夕日の欠片、夜更かしのスタンドライト、朝靄にけぶる信号機の青。覗けばきっとお気に入りが見つかるはずだ。
私はランタンを眺めながらテーブル席の合間を抜け、厨房が隣接するカウンターに荷物を置いた。
「香菜さんおかえりなさい。麓の町へ買い出しをお願いしてすみません。迷いませんでしたか?」
八郎は厨房から出迎えてくれる。初雪の白髪に乱れはなく、ワイシャツにスラックスの服装が今日も良く似合う。ここが洒落たバーなら創作のカクテルを提供してくれそうな風貌だ。
「もう迷子になりません。今日で働き初めて三ヶ月目ですよ。スーパーの場所も売り場の位置もバッチリです」
「頼もしいですね。狙っていたチョコレートも買えたようで何よりです」
「そうなんです。話題の刑事ドラマと有名パティシエがコラボした限定品なんです。って、よく分かりましたね」
八郎は自身の唇のすぐ横を指先で示し、私は口元を拭う。車内でつまみ食いをした跡が残っていた。
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