この命尽きるときまで、けして口にすることはない

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この命尽きるときまで、けして口にすることはない

「消えろ、消えろ……消えてくれっ」  不可能と知っていて尚、浩司はこすり続けた。  勢い良く流れ続ける水は、蛇口を壊さんばかりに捻られ、手の甲から跳ね返った水滴が、浩司のシャツもスラックスも濡らしていく。  やがてそれは床の色すら変えていく。それでも、浩司の手は止まらない。かつて人前では見せたことのない焦りと苦渋を滲ませた顔で、ただひたすらに、己の左手の甲を乱暴にこする。  真夏だというのに、もう手の感覚すら薄れるほどに身体は冷えきり、水音はいつまでも洗面所に響き続けた。  週末ごとに、浩司はベランダを開けたまま、灯りを落とした寝室で静かに待つ。 いつの間にか慣らされてしまった、分不相応な広い室内。調度品は映画の中で見る貴族たちの生活のように馴染みのないものばかりだ。猫足のテーブルに揃いの椅子。ユニットか昔ながらの四角い湯船しか知らない身には、バスルームの真ん中にある華奢なタブなど恐ろしくて使えない。いつもシャワーで済ませるようになった。 「帰りてえ」  つい漏れてしまった呟きが、紅のベッドカバーに落ちる。  その瞬間、厚いカーテンが風をはらみ、室内に人が増えるのを知覚した。  ベッドに腰掛けたままの浩司を真っ直ぐに見つめる青年は、うっすらと微笑んでいた。カーテンの隙間から覗くのは、母国では見たことのないほどに大きな月。望月の今日、青年の能力は最大限に引き出されると聞いたのを思い出す。  音もなく歩く彼に魅入られたように動けない。滑らかにカーテンが開き、室内は銀の光に満たされていく。己が発するかのようにその光を纏い、彼が一歩ずつ足を出す。石造りの床を鳴らすこともなく、やがて浩司の正面に腰を落とし、力無く垂れていたその左手を恭しく右手で掬った。 「待たせたな」  触れるだけのものなのに、彼が口付けた甲が熱くなる。次第に身体中に広がっていくはずのそれは、予感ではなく確定している未来。  かさかさに擦り切れた肌が、青と銀に輝いた。いや、実際には光など放っていないのに、まるで白熱灯を点けたときのように瞬間的に色と熱を得たように感じてしまうのだ。  そこに在るのは、唯一の薔薇。始祖の血を引く存在の贄たるものになる者にだけ現れる、青い薔薇。  この国に生まれたわけではない浩司にとって、あまりにも突然に運命を変えることになった、忌々しいしるしだった。  滑るように優雅に口付けられ、その肌の荒れように気付いたのか、青年の眉根が寄る。僅かに唇を開いて静かに吐息が甲に落ち、次の瞬間にはもう浩司の肌の肌理は整っていた。 「そんなに、いやか……」  真ん中でふんわりと分かれた前髪が表情を隠す。  僅かに自分より低い位置にある頭頂からすんなりした鼻筋を辿り顎の先が震えるのを眼にして、浩司の表情も陰った。  いやでは、ない。  一目見たときから、何処か惹かれていた。彼の命を繋げるのは己だけだと聞き、迷いながらもここに留まったのは、ほかでもない自分自身の意志。  ただ、それでも。 「ウォルター」  呼ぶ声が震える。恭しく掲げられたままの手も、指先までも震えている。 「浩司、怖がらないでくれ」  緩やかに顎が上がり視線が絡む。  南国の海の色に魅入られて、霧のように外耳から身体に侵入するバリトンに犯される。  膝を立てた方を軸にして、ウォルターがのし掛かってくる。手のひらに載せられていただけの左手は合わせたまま指を絡ませてベッドカバーに押し付けられた。  魅了は、この種族の能力。けれどそのせいではなく、ただ惹かれているのだと自覚している浩司にとって、身動きできないほどに狂おしい時間だ。  重なった唇から、冷たいエネルギーが行き来する。確かに存在する、血が通っている生き物のはずなのに、その体温はあまりにも低く、鼓動はささやかだ。  そんな知識なんていらなかった。  架空の化け物だからと、作りものだと信じていたかった。  交わされる体液は、甘い媚薬となって互いの身体を巡る。  やがて首筋へと辿っていく唇を感じながら、浩司はそこを晒そうと仰け反った。 「もっとリラックスしてて」  耳に落とし込まれるのは、音でしかないはずなのに。どうしようもなく胸を締め付け、そのくせ身体を弛緩させる。  この瞬間だけは、自分より熱い体温を感じさせる吐息を受け、狙われた箇所は痛みを感じない。  ただ肌に大きく穴が空く感覚と、そこから命が流れていくのを感じる。 「あぁ――」  弱々しく跳ねた腰を片手で抱き込み、ウォルターは浩司を取り込む。この世にふたつと無い甘露。舌触り良く滑らかで、それでいてコクがあり、飢えを満たしてくれる唯一の、極上の食物。  本当なら毎日でも味わいたいが、そうするとたちまち浩司は弱ってしまうだろう。  本来、贄以外の人間からもエネルギーを摂取できる一族なのだから、あとはどれだけ自制出来るかにかかっている。  生命活動を維持するためだけにならなくても良いといえる。嗜好であり至高である最も甘美な体液。それに出合った瞬間に、ウォルターの、そして浩司の運命は決まった。  大学の長い休みに訪れていたこの国に縛り付け、衣食住を満たし、その身を捧げさせている。小さな子供ですら知っている一族は、この国では神よりも神聖な存在とされていて、なんどか逃亡を謀った浩司は、帰国を断念せざるを得なかった。  過ごす夜の数が増し、長老と呼ばれるいにしえの存在に秘密を暴露されてからは、もう腹を括るしかないと思った。  お主だけが、あの方を弑することができる――  そんな事実も、方法も、知りたくはなかった。けれど、もしもそれを知らずにたまたま殺してしまったら。  誰よりも強く、けれど儚い存在。  贄の味を知ってしまえば、その存在を失うまではほかの人間の体液では満足出来なくなり、餓死に至るという極端な美食家。  ――後悔、なんてものじゃ済まない、と思う。  開いたままの眼は、身長の倍以上高い位置にある天井を映したまま、じっくりと自分の傷口を舐める感触を味わう。  自由になる手で、僅かに色の付いたプラチナブロンドを撫でた。まるで授乳する母親のようだと思う。  但し、この行為によって高まるのは、母性ではなく、下半身に直結する淫欲だ。愛という情が根底にあるのをひた隠しにして、高ぶる熱を押し付け、獣のように交わる時間。  満足とはいかないまでも、浩司の生活を害さない程度に食事を終えたウォルターは、そのまま次を欲する。  体液の交換。体液による交歓。  それは、ほかのどんなことがらよりも甘美であるのは、ウォルターだけではなく浩司もである。  失った血液の代わりに、精を受け入れる。それは贄の性別に関わらず、また受ける器官も拘り無く、身に入れた途端に栄養となり巡る。構成する一部となり、主たるものの生を長らえさせるため、贄の生命活動を緩やかにしていく。  一説によると、その生き物の一生の鼓動回数は、定められているのだという。  ネズミのように身体の小さな生き物は速く、象のように大きなものはゆっくりなのだと。それが寿命。故に、冬眠など仮死状態になる生き物は、同じ大きさの他の種族より寿命が長い。  真実はともかく、この一族はほぼ不老不死であるらしい。そうはいっても、始祖が既に亡くその血脈が唯一であることからしても、不老はともかく不死ではないのだ。  はたから見れば、それは永遠。夢のような悠久のときを生きる。  けれど、それが幸福と呼べるのかといえば、浩司は否定したくなる。  今、狂おしいほどの熱情をぶつけてくる青年を何度受け入れても、与えても、その瞳から寂寥の色は消えない。寧ろ、回を重ねるごとに濃くなっているように感じられる。  もどかしくその首に腕を回し、縋りつく。腰を揺らし、押し付け、中に窮屈に収まっているものを更に奥へと誘う。冷たい汗が落ちてきた瞬間に消える。放たれた性の証も取り込まれて、一滴たりとも残滓とならない。  全てが浩司のものであり、全てがウォルターのものだ。  それなのにこの寂しさは、苦しさは、どうして――  今の世の贄である浩司が存命中は己の存在は不要であると言いおいて、浩司に知識を与えた長老は眠りについた。  また次代の贄が必要になったときに目覚めるのだろう。  いにしえを伝えるためだけに命を繋ぐ生。それを永久と呼ぶならば、己なら欲しくない、と浩司は唇を噛む。  季節は巡り、ふたりは変わらないまま、周りの人々は老い、生まれ、そしてまた居なくなっていく。  それでも、ウォルターと比べれば、いつしか浩司の方が先に弱っていくのは止められない。  もういっときも離れていたくないと、目を離した隙に唯一が光塵になって風に舞ってしまいはすまいかと、ウォルターは眠りが浅くなっていく。 「ごめんな」  残していくことを許して欲しい。  もう、身体に水分が足りていないのが判る。  力の入らないその手を取り、自分の命を与えたいと、ウォルターは何度も口付けた。  もう、音にすらならない。  それをきちんと理解して、安堵の息が最期となった。  長老により、知識として与えられたもの。唯一、贄が心の底からその言葉を伝えることにより、始祖の血は効力を失う。  ずっと口に出来なかった。何度も伝えたくて堪えた言葉。   ――愛している。
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