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 奈々が小学校に上がる前に、「きちんとした家」を決めておきたいと思っていた。  田舎町ではアパートの数が少ない。あったとしても、やけに割高だったり、場所が学校から離れていたり、独身向きだったりと、「小学校の女の子のいる家」には不向きなものばかりだった。    「由真、あんた、どうしようどうしようってばかり言ってるけど、町営のアパートとか、戸建てとか、そっちを当たってみたら」  と提案したのは、還暦を迎えたばかりの母、鹿江である。  真四角にものを考えがちで、世の中の道理よりも、自分の中の「筋」を優先する父の義男をうまく掌で転がす技量は、苦労人ならではだろう。鹿江は貧乏を知っている。貧乏を知っているということは、「お金がない」ことの程度を熟知しているということだ。いたずらに先行きを不安がったりしない心強さが鹿江にはある。    町営か。  どうしてそのセンを当たらなかったのだろう。言われてやっと気づく由真である。  なんでも思い詰めるあまりに、視野がぎゅうっと狭くなる癖は昔からのものだ。六年前に別れた夫からは「神経質すぎて嫌になる」と叩きつけられたものだ。しっかり者の母を持つと、その反動で、どこかが駄目になるのかもしれない。由真は自分が人より不足した人間だと思っている。自分にはなにかが足りないから、人より余計に必死にならなくてはならないと思っている。だからこそ、奈々が小学校にあがるずいぶん前から住まい探しを始めていたのだ。  (そうよ。最初から町営住宅を当たっていればよかったんだ)  町営住宅なら、良い条件がそろっているはずだ。  低収入の家庭や、母子家庭には安価で貸し出してくれるらしい。  たちまち表情が明るくなってきた由真を見て、鹿江はちょっとため息をついた。まったくもう、仕方がないーー心の声が聞こえてきそうなため息だった。  「そろそろ遅番の時間でしょう。奈々は迎えに行ってあげるから」  鹿江に促されて、由真は重い腰をあげる。  離婚してから実家暮らしが続いていた。奈々は完全にばあちゃんっ子になっている。ごはんもお風呂もばあちゃんと一緒だ。  寂しいといえば寂しいが、実家のおかげでいっぱしに働いて収入を得ることができているのは確かだ。  特別養護老人ホームさくら園。  由真はそこで介護士をしている。介護業界はどこでもそうらしいが、さくら園も人手不足だ。正職員ならば、早朝出勤か遅番か、夜勤しかない。純粋な日勤はパート職員に任せている。  由真も遅番ばかりである。だから、奈々との時間はなかなか取れない。奈々にとって家庭の味はばあちゃんのごはんであり、いっしょに寝る人はばあちゃんなのだった。    しかしさくら園では、育児する職員に向けての時短制度がある。  子供が小学校にあがるまで、早番遅番夜勤はなしで、日勤のみというありがたい制度だ。もちろんその制度を利用すると月給が下がるのだが。  「奈々はわたしが見てあげるから、あんた、仕事がんばり」  と、由真に言ったのは、ほかならぬ鹿江なのだった。  「稼げるうちに稼いでおかないと。わたしが元気なうちに頑張っておきなさい」  悩んだ末に、結局由真は、時短制度を利用しなかった。  奈々の産休があけ、保育所に預けるようになってからすぐ、正規の時間で働き始めた。  最初、周囲は大丈夫なのかと言ってくれた。しかし、そのうち、奈々が熱を出したと保育所から連絡があっても、由真が仕事を休むことがないのを知り始め、周囲はなにも言わなくなった。あの人は尻ぬぐいしてくれるお母さんがいるから大丈夫、と、逆に、妬むような言い方をする者まで現れるようになった。    今でも由真は、これで良かったのだろうかと思うことがある。  今、さくら園では、時短制度を使っている職員が数名いる。  同じ棟では、花本まつりが時短制度を使っている最中だ。  9時に出勤し、4時で帰ってゆく上に、愛嬌がある性格やら、息子の同級生だからという個人的理由があるせいか、介護主任から特に目をかけられており、正規の時間で働く自分より権限が与えられているような気がする。  まつりと一緒に仕事をしていると、由真は自分が惨めに思えてくることがあるのだった。  (ううん。これでいいんだ)  しかし、由真は自分に言い聞かせる。  特養の利用者の中には、「若い頃、仕事をしていなかったために少ない年金で苦労している」人がたくさんいる。  老後、どうにもならなくなる恐ろしさは、想像するだけでおぞけが走る。自分のパンツすら買えない生活。お金がないことは恐怖だ。  由真は、お金が怖かった。  「じゃあ、奈々をよろしく」  言いおいてから、由真は実家を出る。今日も遅番、明日は夜勤。今日帰った時には、奈々は眠っているだろう。  頭の中では町営住宅のことが巡っている。休み時間にさくら園のパソコンで、こっそりインターネットを調べよう、と由真は思う。  実家から近く、小学校にも通える場所にある町営住宅。    「いつまでもお母さんの世話になっていればいいのにぃ」  と、由真が新居を探していることを知った人は言う。  だが由真は「そんなわけにはいかないでしょう」と思う。  自分と奈々の家を持ちたい、という願いは、由真の中で押し殺された「自我」の反動かもしれない。  鹿江の助けなしでは、しばらくは生活はなりたたないだろう。しかし、由真はやってみたかった。奈々が小学生になる、というのは、良いきっかけになるのに違いないと思った。  (そうよ。引っ越しは早いほうがいい。奈々だってお友達を作らなくちゃいけないもの)    学校半ばで引っ越しすることになれば、下手をしたら転校する羽目になるかもしれない。  それなら、きりの良いところを狙うのが一番良い。    由真はそう思った。
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