龍となった八郎

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龍となった八郎

ある村に年頃の娘がいた。とても綺麗な顔立ちをしており、自分の嫁にと申し出るものが後を絶たなかった。 中には父親と同じくらいの年齢のものもいた。妻がいるのにも関わらず舐め回すような視線を送ってくる輩もあまただった。隙あらば彼女の初めての男になってやろうという下品な会話をわざと娘に聞こえるように言い放つ始末。 娘はそんな男たちにほとほと嫌気がさしていた。 ある日娘は山の滝壺の近くで水浴びをしていた。 ここなら男たちに見つかることはないだろう。 ゆっくりと体を撫でて汚れを落としていると、 パシャン!! と背後から水しぶきの音がした。 娘は後ろを振り向き、身構えた。 そこには川岸の水面に片足を突っ込んで固まっている青年がいた。見たところ自分と同じくらいの年の頃であった。 娘は驚き、とっさに顔の下全てを水の中につけ、どんどん後ずさりした。 青年は手招きして何かを言っていたが、耳まで水に浸かって聞こえはしなかった。 その時。 いきなり川底で足がとられて、流れに逆らえず溺れてしまった。 必死にもがくが、圧倒的な水力に坑(あな)がえずに、川の奥深くに引きずり込まれていった。 ……………… 目が覚めると、滝の下の洞窟に横たわっていた。 「気が付いたか」 声の主は、先程の青年だった。すぐ目の前で心配そうに彼女を見つめている。 娘はまだ意識が朦朧としていて、驚くこともしなかった。 先程は遠めで気付かなかったが、間近で見る青年はとても美しかった。 吸い込まれそうな漆黒の髪は絹のような柔らかさを思わせ、瞳を良く見れば透き通るような金の色素が入り交じっていた。 肌もまるで白い陶器のようだ。 毎年神社で行われる奉納の舞で着られるような、高貴な衣装を身に纏っている。 その妖しさは、まるでこの世のものではないようだった。 「……私は……あの後どうなったのでしょうか……」 その事が気になった。 青年はすぐに答えた。 「あそこは、川の流れが速くなってる。絶対に行ってはならない場所だった。お前は足をとられて溺れた。それで俺がそこまで入っていき、体を掴んで岸まで運んだ」 「あなた様が助けてくださったんですか?私なんかのために……良くご無事で……危険にさらしてしまって、ごめんなさい……」 「私にとっては造作もないこと。謝るな」 青年は優しく微笑んだ。 娘はトクンと胸が鳴った。 と同時に自分が裸であることを思い出した。 急いで自分の体がどうなっているかを見てみた。 すると、白い絹の着物が掛けられていた。 「はしたないところを……すみません……」 娘は涙ぐみながら、その着物の裾をぎゅっと握りしめて顔を真っ赤にしていた。 青年は少し動揺した様子で、後ろを向いて言った。 「気にするな。私も無我夢中で何も見えなかった」 それを聞いた娘は涙を流しながら訴えた。 「帰りたくない……ここに居させてください」 青年はビックリして振り返った。 村にはこんなにも私を大事にしてくれる男はいるのだろうか。 帰ったら自分には選ぶ権利もなく、ただ夫と決められたものに従うだけ…… そんな人生は嫌だ…… 「気持ちがおさまるまでここにいるといい」 青年は温かい目をしてそう言ってくれた。 「あのっ……お名前は……」 思わず聞いてしまった。 「名はない。そして、私は人ではない。龍だ」 娘は一瞬息を飲んだが、すぐに納得した。 「そうでしょうね。こんなに綺麗だったなら、人ではないでしょう」 そう言って笑って見せた。 「怖くはないのか」 そう聞かれたが、娘にとって自分を先の運命から解放してくれるものであれば、それは人でなくても何でも良かったのだ。 そして何よりも、この龍に自分は恋をしてしまったようだった。 二人が互いを想い合うのに時間はそうかからなかった。 やがて娘は龍の子を身籠った。 もうすぐで子が産まれようかという頃、突然龍は娘に言った。 「私は先に行っている。お前は親御さんに子供を預けてから来てくれ」 娘はどういうことかと問い正した。 すると龍は語り始めた。 「父はマタギだっただろう」 「何故それを……」 「お前の父は私の恩人なのだ」 龍は続ける。 「以前私は縄張り争いに巻き込まれて弱ってしまったことがある。 小さな蛇の姿にまでなり、息も絶え絶えだった。 そんなおり、仲間と熊狩りをしているお前の父に出くわした。 父の仲間が気味悪がって私の頭を鎌で潰そうとした。 すると父はその腕を止めて、私を沢に放った。 水を得た私は、なんとか沢に沿って山を登って行き、自分の住みかを見つけることができ、力を回復できた。 たまに様子を見に行っていたが、お前がいなくなったことでたいそう元気を無くしている。 だから、一目会わせたい。そして娘の忘れ形見を両親の元に置いていきたい。 薄々気付いてるかもしれないが…… お前はあの日川に流された時に命を落としてしまった。だからもうこの世のものではないのだ。 私は父に助けられたときから、彼の一番の宝物であるお前をずっと見守ってきた。 だがどうしてもあそこで死ぬ運命だったのだ。 それは残念ながら私には変えることが出来なかった。 そこで強靭である龍の生命力をお前の体に宿した。その力のお陰で、ほんの少しの間であれば生き返り、余生を送ることができる。 今から両親の元へ送るから、親孝行しておいで。 必ず迎えにいく……」 そういうと龍は人の姿から大きな神獣と化し、娘を乗せて、両親のいる家に向かった。 それから半月、家に戻ってきた娘は一日一日を慈しんで両親と共に過ごした。 しかし、子を産めば永遠の別れになることは言わなかった。お互いあまりにも辛すぎるから…… そして遂にお産の日が来た。 たいそうな難産だったが子は無事に産まれ、産婆さんも驚くほどの大きくて元気な男の子であった。 これが、八郎誕生の瞬間である。 それから間もなく龍の予告通り、娘の命の灯火は消えようとしていた。 真っ暗闇の中を歩いていると、向こうから温かい、見たことのある光が近づいてきた。 その光の中には龍が両手をさしのべて、こちらを見て笑っていた。 娘は迷い無く、その胸に飛び込んでいった。 すると暗闇は瞬く間に消えた。世界は明るく広がり、いつも二人で過ごしていた場所とはまた少し違う、見たこともない美しい花が咲き乱れるどこかの山の中に立っていた。 龍は娘の手をひいて、その花畑の中に消えていった。 父母はおらず、祖父母に育てられた八郎だったが、すくすくと真っ直ぐ元気に育っていった。 立派な青年となり、一人立ちした頃には祖父母も亡くなっており一人で暮らしていた。 だが、そんなに寂しくはなかった。 祖父と同じくマタギとなり、沢山の仲間と野山を駆け巡っていた。 その豪快な性格やすっとんきょうな行動とは裏腹に、案外整った顔立ちだったので、八郎にお熱の若い娘たちもわんさかいた。 だが、八郎にそんな色気はまだ無かった。 彼はまだ、友と山で狩りをしているほうが断然楽しかった。 ある日、八郎は狩りの途中、食事当番を任されていた。 イワナを仲間の人数分捕まえて、慣れた手付きで捌いていき、火にかけていた。 滴り落ちる自分自身の油で、じゅうじゅうと音を鳴らして焼けていく沢山のイワナ。 腹元がきつね色に焼けてきて、渇いた塩の粒がほんのり姿を現してきた。 あまりに旨そうで、思わず唾を飲んだ。 今日は特別に腹が減っていた。 かなり我慢したが、とうとう堪えきれなくなって、マタギの掟を破ってしまった。 『飯は独り占めせずに皆平等な量を食べること』 たったこれだけのことだが、守ることが出来なかった。 旨そうに焼けたイワナを一匹、また一匹と腹におさめていった。 気づいたときには、ほぼ全てのイワナを平らげてしまっていた。 ヤバい…… 仲間に何と言って詫びよう…… 八郎は真っ青になった。 マタギの鉄の掟を破ってしまったら、どうなるのか? 激しく後悔したがもう遅い…… 突然、苦しくて我慢できないほど喉が乾いてきた。 八郎はイワナを捕った小川に膝をつき、水をがぶがぶと飲んだ。 ところがそれでも渇きはおさまらない。 「ここの水じゃ駄目だ!!」 目を血走らせながら、山の奥へ奥へと水を求めてさ迷った。 気づけば、仲間とはとうにはぐれてしまい、日が沈んでも色々な場所に水を求めて、歩き続けた。 村では、八郎が居なくなったと大騒ぎだった。 あれから33夜目。 八郎はまだ水を飲んでいた。 だがその姿は以前の八郎ではなかった。 33尺もある巨大な龍と化していた。 遂にその日、ぴたりと喉の乾きが無くなった。 八郎は長い期間水を飲みながら泣き続けていた。 自分の姿があまりにも変わり果ててしまったこと。 元の生活には戻れないこと。 仲間との別れ。 そして軽はずみに掟を破ってしまった自分がどうしても許せないこと…… 色んな感情を整理して、吹っ切れたときに喉の渇きは止まった。 八郎は自分の寝床を作らねばと思ったのだが、あまりにも体が大きすぎるので、ここではないどこか遠くへ行こうと決めて飛び立った。 暫くすると、良い場所を見つけた。 十和田山に、体を何度も打ち付けて、沢の水路を無数に塞き止めた。 すると山頂には一夜にして大きな湖が出来上がった。 八郎はここ十和田湖を、自分の拠り所にした。
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