田沢湖の辰子姫

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田沢湖の辰子姫

「母ちゃん、水汲みに行ってくるで」 「ああ、気ぃつけてな、辰子(たつこ)」 少女は初めて一人で水を汲みに行くことにした。 もう充分おらも大きくなった。 それにしても……何でおらが通るたびに、村のやつらはひそひそ話したり、じっとこっちを見てるんだべ。何も悪いことなんてしてねえのに。 何か……不愉快だ。 そんな事を思いながら、辰子は水汲み場のある山の中へと向かっていった。 今日は何と蒸し暑いんだべ。 あそこの泉に寄って顔でも洗っていくか。さっぱりするべな。 母と一緒の時にはさっさと通りすぎていた場所だったが、ずっと気になっていて、寄ってみたかったのだ。 見えてきた!! 辰子は脇道に逸れて、泉の前に膝をついた。 今日は風ひとつなく、水面には全く(なぎ)が出ていない。 まるで、鏡のようであった。 辰子は泉を覗いた。 するとどうだろう。そこには今まで見たこともないような、麗しくて妖艶な女性が映り込んでいた。 「……これが……おらの顔なのか?……」 あんなに働き者であった辰子は、自分の姿を見てしまった次の日からは、仕事が手につかなくなった。 気づけばまたあの泉に足を運んでいた。そして時が経つのも忘れて、ずっと自分を眺めていた。 「綺麗だなぁ……村のもんがおらを見て変な態度をしてた理由がこれで解った」 そんな事を呟きながら一日を過ごした。 遅くに家に帰ると、そんな辰子を母は咎めた。 「いくら見かけが良くたって、水汲みに行かねぇなら、暮らしてかれねぇ!どうせ時が経てばおらみてぇにしわくちゃになるんだ。目を覚ませ!!とっとと働いてこい!!!」 だが己の虜になってしまった辰子には全く届かなかった。 この美貌を利用してどうこうしようとするわけではない。 ただ、この美しさが誇らしかった。 絶対に失いたくなかった。 母のあの言葉だけが胸を突き刺す。 どうせ時が経てば…… 今の辰子にとって、それは死よりも恐ろしいことだった。 辰子は、村の観音菩薩様に百夜参りした。 「どうかこの美しさを永遠におらから奪わないでください」 もう母親は娘に何も言わなくなっていた。 手や顔が汚れるから野良仕事は嫌だ。 あんなに働き者だった我が子はそんな事を言うようになり、全く変わってしまった。 それでも母は信じていた。 時が経てば現実を突きつけられて、目を覚ますだろう…… しかし皮肉にも純粋な祈りはやがて通じた。 ある夜、観音様が辰子の夢の中に出てきた。 「辰子や。お主はそんなに永遠の美しさを手に入れたいのか」 「はい、観音様。どうか……おら、そのためだったらどんなことだってやる」 「人ではいられなくなっても?」 「そんなの関係ねぇ。とにかく、このままの姿で衰えねぇようにしたい。みんなみたいにしわくちゃになんかなりたくねぇ!!」 そう言って辰子は泣いた。 「あいわかった……」 あまりの少女の情熱に観音様は答えた。 次の日、辰子は観音様から教えられた通り、山の奥深くに入っていき、泉を探した。 あった!! これを飲めば観音様が言うとおり、永遠の美しさを手に入れられる…… 駆け寄って無我夢中で、手ですくい上げて水を飲んだ。 何度も何度もそうした。 これだけ飲んだら……と満足して、家に帰ろうとした。すると、何だか喉が焼けるように熱くなってきた。 何だこれは?無性に喉が渇く!! 辰子は苦しくなって、また泉の水を飲んだ。 しかし、飲めば飲むほど喉がカラカラになっていく。 苦しい……!!! 辰子はその場に倒れ、首をかきむしり、もがき苦しんだ。そして意識が遠退いていった。 ……………… 暫くの間気を失っていたようだ。 もうどこも苦しくはなかった。 先ほどの辛かった出来事は、願いを叶えるための試練だったのだろうか? そんな事を思いながら、泉で自分の顔を確認した。 すると…… そこには前の辰子の姿はなかった。 代わりに、恐ろしい顔をした龍の化け物が、映っていた。 辰子は思わず退けぞった。 これがおらか???…… こんな……醜くて恐ろしい……違う……おら……前のおらは……どこだ…… 辰子は戸惑いのなか、悟った。 バチが当たったんだ。 少し器量が良いくらいでおら、いい気になってた。 毎日働かなかった罰だ。 母ちゃんに苦労させた報いだ。 他のものを蔑んでたのが観音様にはお見通しだったんだ…… 気づいたときにはもう遅い。 辰子はどうして良いかわからず、とにかく1人になりたかった。 こんな大きな図体(ずうたい)、隠せるとこっつったら…… 思い付いたのは村から見える、あのどでかい湖だった。そこは『田沢(たざわ)』と言われていた。 辰子はそこに向かって翔んだ。 その時の勢いで、強い突風が発生した。泉の近くの笹藪や小さな若い木は、瞬く間になぎ倒された。 泉の水も(くう)へと舞った。 その為、そこはもうほとんどが(から)になってしまったが、何事も無かったようにまたこんこんと湧いて元通りになった。 その少しあと、湖の方から聞いたこともないようなどおーんという激しい水しぶきの音が山の奥まで響いてきた。 まるで雷でも堕ちたかのようだった。 まもなく雨か、その水しぶきか、地上にどちらとも言えないものが降り注いだ。 もしかしたら……辰子の涙だったのかもしれない。 後に、辰子の母の元に観音様が現れ、ことの次第を包み隠さずお話しになった。 母の嘆き悲しみようは想像を絶するところだが、強き母だった。娘への手向けと、松明(たいまつ)を湖に放り込んだ。 するとそれは、一匹のクニマスに姿を変え、湖の奥深くへと泳いで行った。
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