第一章

2/46
前へ
/46ページ
次へ
信子はここ5年程働いていない。父が残してくれたこの家があるので家賃はかからないし、自分が働いて蓄えた貯金と、父が僅かながらも残してくれた遺産でしばらくはこのままのんびり出来そうな身分なのだ。 何しろ元銀行員だ。金融商品には詳しい。財産を増やす知識も元手もある。 働かなくなった理由は表向きは母の介護だが、本当は違う。母は高齢だったが 自分のことは自分でしていた。 信子自身が、精神を壊しかけてしまったのだ。 初めは、いつも通りの時間に起きることができなくなった。何とか起きて支度を始めても、吐き気とめまいが治らない。 吐き気がするのに食欲があるという訳の分からないことになってしまい、食べては戻した。 数ヶ月程続くとさすがに母親も心配し、内科に行ってみた。 その頃には、シャンプーの度に髪の毛が驚くほど抜けるようになっていた。 消化器官の検査を詳しくしてもらったが異常はなく、気持ちの上から来るものかもしれないからと、心療内科を勧められた。 心療内科に行くと、マークシート式の質問を100問ほど記入させられ、年配の女性の医師と少し話をした。 「結果を見ると、軽い鬱ですね。お仕事もされているようですから、まず漢方薬から始めましょう。大丈夫よ、気長にみましょう。もし良くならないなら少しずつ強い薬に変えていきます。」 と言われた。信子は怖くなった。精神病と言われるのが怖くて、信子はいくつかマークシートに嘘の記載をしていたのだ。 全てに正直に答えてたら、恐らく軽い鬱病なんかではなく、重度の鬱病と診断されていたかもしれない。 処方された薬も受け取らず、信子は家に帰り、それから一週間ほど仕事を休んだ。その間いろいろと考えを巡らせ、結局仕事は辞めることにした。 約25年間勤めたのに、特に引き止められることもなくすんなりと事は進んだ。 気の強い自分がなぜこんな事になってしまったのか全くわからない。 もし心当たりがあるとすれば、何年も前から自分の心の拠り所となるような伴侶を探し求めているのに、見つからないということだろうか。 だけど、仕事に熱を上げていた自分にそんな時間はなかった。仕事に身を捧げるのは、社会人として当たり前ではないだろうか。 信子は、自分の様に責任感の強い、仕事のできる後輩、部下を育てるために一生懸命やってきた。 高卒や大卒で入ってきた女子行員ともあれば、社会で男性に負けないようにするために、必死で教育をした。 少し厳しすぎたという自覚はある。だが、彼女たちのためを思えばこそ熱が入ったのだ。 18歳や、20歳や、22歳の若い女の子達。 昔のように、男に守ってもらいながら暮らしていく時代ではない。それぞれに自立し、自分の力で生きていかなければならないのだ。 電話の取り方から、窓口客の対応の仕方、事務の取り方に、上司への態度など事細かに伝えた。 それなのに、彼女達はほとんど自分の教えに従わないどころか、ミスを連発し、信子が声をかけるだけで怯えた表情を見せるようになった。 「あなたがいつも覚えたことを一生懸命メモしてあるそのノート、私に見せなさい。どんなふうにメモしてあるの。何度同じことを言えばミスをしなくなるの。」 「同期の子に、今の手順を確認してごらんなさい。他の店舗の子はこのくらい暗記してスラスラこなしてたわよ。ま、あなたに親しい同期なんていないでしょうけど。」 信子は若い女の子と達の無能さに呆れ果て、自分の感情のままに小言を並べたことも多々ある。でも、誰も言い返してこなかったのは、的を射ていたからではないのだろうか。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加