忘れん坊の泥棒

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忘れん坊の泥棒

 僕たちの泥棒探しが始まる数日前。  いつもは同じだった天月との帰り道を、真逆の方向に帰った日の事。  僕は天月と別れて、目的の場所に辿り着いていた。  その日はいつもより、少しだけ蝉時雨がうるさかったことを覚えている。 「私はユダヤ人だぜ」  落陽に濡れたアスファルトを眺めて、死の商人を名乗る女性が呟く。  放課後の駄菓子屋「ノーベル」。飾り気のないカタカナ表記の看板が、実に田舎臭い。 「日本人にしか見えませんよ、ザハロフさん」  言い返して、僕は手にした駄菓子のチョコレートをレジに置いた。  レジに座る女性は「五円」と呟いて、また緋濡れのアスファルトに黄昏る。 「シェークスピア。『ヴェニスの商人』に出てくる、強欲なユダヤの金貸しの言葉さ」  死の商人を名乗る彼女は、道化師のような女性だった。  銀縁の眼鏡にくわえ煙草。  色素の薄い目はいつも眠たげに垂れて、どこか泣いているようにも見える。  けれど口元に湛えたニヒルな笑みが、彼女の表情を誤魔化していた。 「シャイロックですね」 「そ」  僕が差し出した五円玉を受け取って、ザハロフさんは色褪せたレジに放り込んだ。  僕らの遠光台高校の麓に佇む駄菓子屋は、ザハロフさんが一人で経営している。  夏だと言うのにクーラーもつかないこの店は、あまり客入りがよくない。
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