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忘れん坊の泥棒。
最初にその存在を感じたのは、幼稚園の時だった。
あの日の僕らはイチゴ狩りで、幼稚園から少し離れた小さな畑まで歩いていったのを覚えている。
イチゴ狩りの最中、仲の良い男の子と喧嘩をした。どっちの採ったイチゴの方が大きいだとか、そんな些細なことだったと思う。
けれど僕たちは大真面目に喧嘩して、僕は右腕に引っ掻き傷まで作ってしまった。
──こんな喧嘩なんて、なくなっちゃえ
家に帰ってからも、その喧嘩が悲しくて仕方がなかった。悲しくて、悔しくて、「なくなっちゃえ」と願った。
けれど翌日。その喧嘩は誰も覚えていなくて。それどころか「楽しかったね」だなんて、喧嘩した本人が笑いかけてきた。
僕の気まずい気持ちは置き去りに、周りの皆は誰も喧嘩なんて覚えていなくて。ハプニングと言えば、僕が転んで右腕を怪我したことぐらいだと、先生は笑った。
──違うよ、この傷は友達と喧嘩したんだ
泣き出したくなる気持ちを、言葉と一緒に飲み込む。苦くて、渋い、我慢の味。
堪えた涙に目を瞑った時。頭に声が響いた。
《おやおや、偉いねぇ坊っちゃん。ご褒美にチョコを上げようかい。きっと甘くて、胸の苦いのもなくなるよ》
やけに饒舌で、優しい言葉。その魔女みたいに嗄れた声を聞くと、胸の苦いものが消えていく。
けれどその声は心なしか、とても悲しげに聞こえた。
死んだ子供の歳を数える母親みたいに優しくて、胸を抉るように痛い。
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