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七夕の日から雨を忘れた夏に、今後一週間雨の予報はない。
チャンスと叫び鳴く蝉の愛唄を煩わしく聞き流して、一階下の図書室に入った。暇そうな図書委員の先輩に軽く会釈する。
「おっせーですよ元カレ君っ」
いつもと違う席。かつて在籍していた先生の名を取った本棚に挟まれて、彼女は僕を指さす。
「うん、図書室ではお静かにね」
「あっ、すみません……」
シーと口に人差し指を当て、彼女は慌てて口許を押さえる。
いつもと変わらない会話。いつもと変わらない、天月の表情。
どれだけ会いたくないと感情を誤魔化しても、彼女の顔を見るとまた胸がざわついた。
「それで、お返事を聞きましょうか元カレ君」
クーラーの直風を避けた席に腰を下ろして、天月は僕を見つめた。
海みたいに深くて、けれど飴細工みたいに透き通った、蒼い瞳。
その真っ直ぐな瞳は、いつだって僕とその先を見通してる。
『また一緒に、優しい世界を探してくれませんか?』
彼女の言葉を思い出す。
優しい世界を夢見て、忘れん坊の泥棒を探す少女、天月詩乃。僕が唯一好きになって、そしてすれ違った、ちょっとかわった女の子。
「優しい世界ってのは、僕にはちょっとわからないよ」
言葉にした途端、天月の表情から力が抜けた。
真っ直ぐに結んだ唇が、弱々しく歪む。
諦念と、それを包むオブラートみたいな、弱い微笑だった。
「でも──」
僕が天月に抱くこの感情は、きっと恋と似ている。
ふとした日常に流れる曲のフレーズが気になって、けれどその曲名が思い出せないのと同じように。
曖昧でモヤモヤと胸の焼ける、不思議な気持ち。けれどもう、一度濁したその問いへの答えを、僕はもう迷わない。
「だからこそ、見てみたい。手伝うよ、泥棒探し」
これはきっと、恋じゃない。
あの日。あの蝉時雨と、海を写した快晴の日。
天月に差し出された手を、僕はまだ握り返すことはできないのだから。
「いいんですか、本当に?」
微笑が消えた。
歪んだ口角は、また元の真っ直ぐな線を描いている。
「ただの七不思議ですよ? 二条君、確か興味なかったと思いますが」
「いや、僕も泥棒には用があるから」
普段彼女が見せる、明るい太陽みたいな顔とは真逆の、月みたいに冷たい表情。
初めて見るわけじゃないのに、心とか言う不治の病は、肺の中でしゅわしゅわと入道雲が沸き立つみたいに、痛む。
「天月は「元カレ君」と一緒でやりにくくないのか?」
ひねくれた邪推が、口を突いて飛び出した。
天月の顔が、声音が。梅雨空みたいに曇ったのが、はっきりと感じられた。
「……そんなこと、ないですよ」
それは否定というよりは、自分に言い聞かせるような暗い色をしていた。
「私は、二条君と一緒がいい、です」
「どういう意味、それ?」
きっと言葉は、子供の時に考えていたほど難しいものじゃない。
けれど人の感情は難しくて、だから深読みをする。
「そのままの意味です」
「邪推」と言う言葉を知るのは、きっと人の言葉を素直に信じられないほど、臆病になってしまった時だ。
人を信じられる純粋なうちは、そんな使い道のない言葉なんて、覚える必要がないのだから。
「あの時私の何がいけなかったのか、二条君の何がいけなかったのか。私だって、そう言うのには疎いなりに考えたんです」
自分が作った話の流れを、今更ながらに恨んだ。
人生経験の薄い僕たちの年代にとって、一番大きな傷として残っているのは、きっと恋愛についてだ。
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