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「ねぇ、先生。ここでたくさんピアノの練習をしましたね。たくさんの人に聴いてもらった。子供たちの笑顔が懐かしいです」
心にもないことを言いながら、手が届きそうな距離まで来たところで、
「……待ってくれっ」
切羽詰まった声。後じさりする男の耳には、私の綺麗な思い出話は届いていないようだ。
強い風に髪がなびく。男の視線が一点に釘づけになっているのに気づいた。
思わず、嘘のない笑みが零れた。
私の皮膚に浮かんだ、血痕が飛び散ったような赤黒い痣が見えたのだろう。
気味が悪くて、実際不吉なもの。
「これって困りますよね。見た目が悪いし、人に見られたら勘ぐられそうで……まぁ、私のこれと先生の顔にあるそれは違うけど」
……残念だな。
いろいろと聞きたいことがあるのに、男は怯えきっていて、まともに会話できそうにない。ため息をついていると、男が踵を返して走り出した。
状況を楽観して選択を間違えるほど馬鹿じゃなかった。
「人って時々、好奇心で身を滅ぼすんだよね」
呟いて、私は遠ざかる背中をじっと睨みつける。
逃げ出したのは最善の策だけど、この場所に来た時点で詰んでるんだってこと、わからせてあげなくちゃ。
蔦のはったレンガ造りの門に辿り着くというところで、扉もないのに男は速度を落とし立ち止まった。ぎこちない動きで振り返った獲物は、きっと懇願する目で私を見ている。
男の警戒心なんて気にせずに、遠慮なく駆け寄る。
もう彼は、自由に選択できないのだから。
「……っ……なにをしたんだ……体が変だっ……」
問いには答えない。すぐにわかることだ。
「来て早々に帰っちゃうなんて酷いじゃないですか。私、本当に待ち焦がれてたんですよ。この思い出の場所に……のこのこやってくる可能性を信じて」
「……すまない……見捨てるつもりなんてなかったんだ……」
震える声を聞きながら、私は昨夜の夢の内容を思い出そうとしていた。
なんだったかな……なにを使った?
「私のこと、本気じゃなかった?」
「そうじゃないっ……だけど、やっぱり間違ってたんだ、俺たちの関係は……だから、あんなことに……俺はただ、君に、治ってもらいたくて……」
「怖かっただけなんじゃないの?」
「ち、ちが……、……っ?」
男の右手が、なにかを握るような形を作った。その動作に、ふいに夢の記憶が甦る。
「ああ、そうだった」
包丁だ。昨夜の私は、包丁で死んだ。
きっと、男が握っているのは包丁の柄なのだろうと予想した。
……目に見えないと、実感が湧かないな。
小指側にある見えない包丁の刃先を、ゆっくりと自分の腹の前へと近づけていく。
見ようによっては、まるでパントマイムでも披露しているかのようだけど、その表情は陽気とは言えない。
意志とは関係なく動く体に動揺する滑稽な姿を前に、私の感情は入り混じって忙しい。
憎しみと期待と責任感、少しばかりの恐怖。
ふわりと、酒の匂いが漂った。
「お酒、飲まない人だって聞いてたけど……もしかして私に会うために、お酒の力を借りたとか?」
「……怖いんだよ。君の事を考えてしまうのが……」
酒に逃げて、酒に溺れているのかもしれない。アルコール中毒で肝臓が駄目になる前でよかった。酒に先を越されるなんて冗談じゃない。
この男を壊すのは私。
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