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「大丈夫。これできっと、私の心は救われる」
包丁を握る右手を左手が包み込む。自分の手と腹の間になにがあるかなんて知らなくても、ろくな結末を迎えないことは、罪悪感が教えてくれているのだろう。
男は眉間にしわを寄せ、今の季節には不自然な汗が額を流れていく。
「お願いだっ……やめてくれっ……!」
わけもわからず叫ぶ声が夜の庭園に響いた直後、存在しない刃先が勢いよく腹に突き刺さった。
膝を打ち倒れ込んだ男の呻き声を、私は黙って聞いている。街灯の黄色い灯りのおかげで、ベージュのダウンジャケットが真っ赤に染まっていくのがよく見える。
あっけなかった。
「メリークリスマス」
……おかしいな。あんまり嬉しくない。
その光景は、手品のようにも見える。だけど、たとえどんなに説明のつかない出来事だとしても、手品でも幻想でもない、確かな現実だ。
ただの歪んだ現実。
いつだって世界のどこかで起きている。
大抵の場合、待ち受けている結末は悲劇だ。交通事故のように、なくなることはとても見込めない。
呻く声がか細くなって、やがて途絶えた。
「ほんと、嫌な時代だね」
復讐を無事成し遂げた私は、意識を失った男の両足首を掴むと、スズラン畑の小道までずるずると引きずっていった。
再びピアノ椅子に腰かけ、演奏を再開する。
静まり返っていた庭園に、しっとりとしたメロディが流れる。
穏やかなような、切ないような。私にとっては祝福のメロディ。特別な夜のクリスマスソング。
「サンタさん。私はこれからも悪い子でいるね」
ピアノの音色に歌声を乗せる。
ちゃんと彼に、聞こえるように。
◆No.1 欠けた月の夜に◆
耳が痒い。
不快感で目が覚めてしまい、俺は睡魔に抗って目蓋を上げた。まだ室内は暗いままだ。
半端に途切れた夢の内容は一瞬のうちに忘れたけれど、なんだか疲れる夢だった気がする。
暖かい羽毛布団から手を出したくなくて、寝返りをうって枕に耳を擦りつけた。
ちっとも痒みは解消されずもどかしいばかりだ。
結局手を伸ばしたところで、違和感に愕然とした。
……耳はどこだ?
寝惚けているのか、まだ夢の中なのか。
わけもわからず痒いところを探って彷徨う俺の手は、なぜか頭の上で止まった。
「……なんだ、これ」
ふさふさな手触り。丸みを帯びた三角形のそれを弄ると、たちまち痒みがひいていく。
人間の耳はそんなところについていない。寝惚けていてもそれくらいはわかる。なのに……確かにそこに神経が通っているのを感じる。
ベッドの中、半開きの目で天井を眺めながら、おずおずと両手を頭上に乗せる。
手のひらに押されて、ふたつの三角がぺたりと折れ曲がる。
手を離すと、再びぴんと立つのがわかった。
先端をくいっと引っ張ってみても、取れそうにない。元からそこにあるかのようにしぶとくて、力を込めると痛みが走る。
もうすっかり目覚めているはずの頭に馬鹿げた考えが浮かぶ。
これじゃまるで……。
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