社会人編 6話 憂さ晴らし

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社会人編 6話 憂さ晴らし

「まだ、気持ち悪いんだ……」  ボソリと、耳に届くか届かないかの小さな囁き。  中腰のまま固まっていた姿勢を、再びおろして浩太郎の目線まで戻った。  確かに、ほったらかしはよくないか。いつまでもわたしがそばにいると嫌がるかなと、早めに退出したほうがいいのかなと思ったけど。 「胃薬とか、ここにある? もらってこようか?」 「いや、いい。ベッドまで運んでくれれば……、寝てれば治るし」 「わかった」  座り込んだままの浩太郎の横に行き、脇下から自分の腕をまわして支える。浩太郎も腕をついて立ち上がった。  だいぶ重い。浩太郎の足取りも重いが、わたしの足元のほうがむしろヨロヨロだ。必死に耐えながら5、6歩進みベッドにたどり着く。その距離ですら長く感じる。  腰掛けさせるように反転して同時にベッドへ座ると、ギシリと軋む音がした。  今さらながら、ドキドキしてきた。  こんな薄暗い中、ベッドに座っている。回した腕からは懐かしい浩太郎の体温と感触が、3年前へと記憶と気持ちをフラッシュバックさせる。なにより、くたりとわたしに凭れかかる重さが、この場へ留めさせているような錯覚さえしてきて、なんだか危険だ。  ドキドキが、凭れた身体越しに伝わって気付かれるんじゃないかと、怖い。 「あ、あのねっ」  雰囲気なのか緊張からなのか、その息苦しさから飛び出すように勢い余って声を張った。 「こ、浩太郎に、謝らなくちゃ、と思って」 「……謝る……?」  その浩太郎の反応には特に抑揚はなく、凭れかかった姿勢のままだ。 「う、うん。3年前、わたし酷かったな、って自覚してるっ。ごめんなさいっ! 勿論、今さら許してもらおうなんて思ってる訳じゃないんだけどっ」 「……あぁ、あれかぁ」  浩太郎はどこかボンヤリしたように悠然とした反応だ。  それは、ひょっとしたらわたしの思い過ごしだったのか。自分が思うほど浩太郎にとっては大きな引っ掛かりではなかったのか。と思えるほどで、その浩太郎の雰囲気に少し胸を撫で下ろした。  だけど。 「連絡取れないように拒否したこと、かな」  ポツリと浩太郎は呟いて、そしてまた、記憶を引っ張り出すように続ける。 「……それとも、嘘ついたこと?」 「えっ?」  反射的に振り向くと、浩太郎は凭れた上体を起こすようにして、ヒタと視線を絡ませてきた。今にも鼻先が触れそうなその距離で、睨んできた。 「嘘……?」  怯んで身体を後ろに引こうにも、いつの間にか浩太郎の腕が腰にきつく回されていて、少しも動けない。 「そう、嘘。僕を遠ざける為に、嘘ついたよね。付き合ってなかったんでしょ? あの人と」 「あっ」  あの人とは、ヒロ君のことだ。確かに、最後に会った日に、ヒロ君と付き合うとかそんなこと、言っていた。でも……。 「ど、どうしてそれを……」 「調べた」 「えっ」 「だけど、知らなきゃよかったって、思った。嘘をついてまで拒絶されたんだって……それのほうがすごいショックで……辛くて、苦しくて……すごく、君のことを恨んでるよ」 「……っ」  それはあまりにもストレートな告白だった。浩太郎に「恨んでる」と、ハッキリと告げられて、世界が真っ暗闇に落ちたように、一気に血の気が引く衝撃。  だけど、わたしには弁明の余地はない。浩太郎の言うように、酷い逃げかたをしたんだから。 「……ごめんなさい……」  気持ちを込めて発したはずなのに、思った以上に弱々しい声しか出ない。 「うん、でも許さない」  キッパリと浩太郎は告げる。さらに気持ちが沈み込んでいくのがとてもよくわかる。自然と唇は震える。 「あ、あの時は、ああ言うしか、わたしバカだから、上手くできなくて」 「確か、僕のことを汚したくない、とか?」  フサッと柔らかな浩太郎の髪の毛が揺れうつむく。 「そんな理由で、と思うと、悔しくて何がなんだか訳わかんなくなって……どうにかなりそうだったよ……」 「浩太郎……」 「今でもそうだ。無性に、どうしようもないくらい気持ちが暴れてる」  スッと浩太郎の頭が上がった。大きな瞳が細められる。的を絞るかのように、射抜かれる。 「責任とって。……このムシャクシャした気持ちを憂さ晴らし、させて」 「……えっ」  くらりと視界が揺れて、背中にベッドの軋みを感じた。肩を押さえ込むように、浩太郎がゆっくりと四つん這いでのしかかる。 「そういえば昔、『セックスは誰とでもしない』とか『僕とはしない』とか言ってたよね」 「そ、それはっ」  クスッと浩太郎は笑う。ベッド横のライトが、彼の左側を照らしてその笑みを映すけど、右側の陰になった瞳は、笑ってはいない。 「セックスさせてよ、大村さん。『ビッチじゃないから誰とでもしない』『僕とはしない』って言ってた大村さんに、責任取ってもらいたいな」 「こっ、浩太郎っ」  今、目の前にいるのは誰? こんな浩太郎、知らないよ。あの頃のように名前を呼ばないこの人は、ほんとに、わたしの知っている如月浩太郎なんだろうか。
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