エピローグ

1/1
40人が本棚に入れています
本棚に追加
/24ページ

エピローグ

「じゃあ結局、あっちの世界に行っちゃったんだ?」  行儀悪くベッドに寝転んだまま肘をついて、組んだ手に細く小さな顎を乗せた姫は驚いたような声を上げた。美しい黄金色の髪は無造作に垂らされて、寝間着のドレスと一緒にシーツの上に広がっている。秀でた額に、好奇心旺盛なバンビのような瞳、そして今まさに咲きかけの蕾のような唇。美しさよりも溌剌とした若さが勝るまだかわいらしい姫君だった。 「左様です。従者共々ここではない別の世界へと旅立ちました」 「運命の人のもとへ、か。すごいなあ羨ましい!」 「彼がここに現れた時は驚きましたが。まさか姫の相手ではないどころか、全く違う世界に運命の人がいるとは思いませなんだ」 「どうしてそんなことまで分かるのにわたしの運命の人はどこにいるのか分からないの?」 「それは」 「おらんからではないか?」  そう言って姫の寝所に現れたのは、黒いドレスに青白い素肌を晒した妙齢の女だった。その女に向かって姫が口を尖らせる。 「絶対います!」 「どうだかのう」 「そっちが邪魔してんじゃないの?」  睨み合った二人は母娘にも、仲の良い友達同士にも見える。そんな二人の間に入ると、あのアインストを異世界へと送った老人はまあまあと取りなすのだった。  さてここは深い雪と荊に覆われた伝説に眠る城。魔女の呪いにかかり百年も目覚めないと言われる姫が眠る石造りの冷たい城は、その伝説の通り時折現れる勇敢な青年たちを拒むようにのっそりと立っていた。ただ伝説とは違うことが一つ二つあるにはあるのだが。さてその一つ。 「その可愛げのなさが原因ではないかの。呪いにかかりながら自力で目覚めた姫など古今東西お前だけであろ」 「仕方ないじゃない。目が覚めちゃったんだもん」  そう、呪いにかかったはずの姫はまるで自然に、朝目が覚めるように、呪縛から放たれたのだった。とはいえ彼女が眠りから覚めたのは当時から百年近くの年月が経つ。城内は勿論のこと、街にも人っ子ひとりいないので、彼女の話し相手はこの城を守る老人だけ、いや、もう一人。 「大体それ呪いをかけた本人が言う?」 「いけないかえ」 「図々しいよね」 「どっかの小娘よりはマシであろ」  涼しい顔で言った女こそが、姫に呪いをかけた魔女その人であった。魔女は姫の呪いが解けたと知るや否や、再び呪いをかけるわけでもなく気まぐれに姿を現わすようになった。それがおよそ一年ほど前のことである。 「まあいいや。ねえおじいちゃん、わたし決めた」 「決めたとは?」 「探しに行くよ。わたしの運命の人」  そう言ってベッドの上、姫は見えない剣を振りかざして勇ましく仁王立ちした。老人は彼女を見上げてその隠されたフードの奥で目を丸くしたのだった。 「探しに行くのですか。どこにいるかも分からないのに」 「だって待ってても来ないんだもの。だから探しに行くことにしたの。おじいちゃんからアインストとイマムラの話を聞いてたらここで待ってるのバカらしくなっちゃった」 「ほんに可愛げのない女だこと」  そんな魔女の皮肉もどこ吹く風、姫は子供のようにぽんと飛び上がるとスプリングの効いたベッドの上に着地して座った。 「大丈夫。ちゃんと見つけたら帰ってくるよここに。寂しいでしょわたしがいないと」 「全然」 「姫がここにいたいと思う場所が見つかったならそこにいてよいのです」 「じゃあやっぱり戻ってくるよ。わたしの居場所はここだもの。お父様やお母様が残してくれたところだし……おじいちゃんと魔女もいるしね」  そうと決まったらすぐ寝るわ、と跳ねるようにベッドに横になると次の瞬間にはもう寝息を立てている。無条件にやってくる輝かしい明日を待ちきれないとでも言うように。 「まったくどこまでも予想の上をいく姫だの」 「そんな娘だから気に入られたのでしょう貴女様も」  片方の眉を上げ、つまらなそうに鼻を鳴らして魔女は部屋を出て行った。老人はその美しくしなやかな背中に向けてひっそりと呟いた。 「貴女様の止まった時もやがて動き出すでしょう。姫や、あの王子と同じように」  アインストや姫が生まれるよりもはるか昔、とある国のこと。心の均衡を崩した王が国を荒らし始めた時、王を諌め、彼の代わりに国政を支えた王妃がいた。いつしかその王妃を疎んじ始めた国王はかつて愛したはずの妻に死罪を命じたが、時の宰相が彼女を失ってはならぬと密かに隠したのである。その人道と王の責務を知る妃が己の時を止め、悠久の時を経て「魔女」と呼ばれるようになったのもまた遥か昔のことであり、今はお話の中に残るだけだった。 「呪いはいつか解かれるからこそ呪いなのでしょう」  老人もまたゆっくりと椅子から腰をあげるとドアへと向かった。  語り部たる老人が果たしていつの頃から存在しているのかは、それこそ魔女でさえ知らぬ歴史の謎である。彼はその目で見てきた古よりの物語を口伝えに伝えてきたのだ。異世界で愛するものを見つけた王子の恋物語も、呪いから覚めた姫の冒険も、魔女と呼ばれた妃の遠大な歴史も、彼が語り継いでいくのだ。 「よい夢を」  老人の呟きを聞いたものは居なかったが、それはあらゆるものに優しく降り注いでいく……。  パタン、と閉まったドアの音が静かに響いた後はただ夢見る姫の寝息だけが部屋の中を満たしていったのだった。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!