ビーフシチュー

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ビーフシチュー

「ただいまー」  玄関を開けるとデミグラスソースのいい匂いがしてきて盛大に腹が鳴った。  最近は、大学卒業を前にして何かと忙しい俺の代わりに夕ご飯を作るのは、専らアインストの仕事になっている。最初は野菜を切るのにも四苦八苦していた手際も、もともとの真面目な性格もあってすっかり手慣れたもの。今ではかなりの腕前になってきていて、「王子たるもの」が口癖のどっかの従者は渋い顔をしていたけれど。  振り返ったアインストが穏やかに笑みを見せて、俺は相もかわらずにやけた。 「おかえり」 「今日のご飯は?」 「ビーフシチューだ」 「最高」 「大袈裟だな」  呆れたように、それでも笑っているアインストを見ていると、理不尽な准教授の叱責もどこか遠くへ消え去っていく。 「グレースたちは?」 「今日は仕事だそうだ」  ということは今日は二人きり、ラッキーだなと思いながらアインストの手元を覗き込んだ。  実は異世界の王子であるアインストには、忠実なる従者が二人いる。この世界に残ると俺のために(ここが大事)決めたアインストと共に、故郷を捨てて異世界へと渡ったほどであるからその忠誠心たるや海よりも深いことは確かではあるが、何せ学生向けのマンションの一室に男四人で暮らすのはあまりにも手狭だった。俺も大学を卒業したらここは出ていくつもりだったから、それに先んじて彼らは二人暮らしを始めている。アインストをこの部屋に残すか否かで一悶着あったのは別の話。  とにかく、二人ともそれぞれに仕事を見つけて、どうにかこの世界で生きていく筋道を作ったようだ。 「グレースも大変だな。あいつ全然、家事とかしないんだろ」 「やらない訳ではないんだろうが……」 「壊滅的に家事ができないからな」  元々、家事などする必要のない生活をしていたというクラインは、どう頑張っても家事ができないようだった。同じような境遇だったはずのグレースといえば、彼の大きな身体に見合った太い指で、料理から洗濯まで器用にこなした。それでも何かにつけてここにやって来るものだから、今日みたいな日は俺にとってアインストと二人っきりの貴重な時間となるわけだ。 「クラインは、あの国では本当に一番と言っていい剣士だったんだ」 「この国では小うるさいおっさんだけどな」 「クラインにそんなことが言えるのは今村くらいだろうな」  おかしそうに笑うアインストには、わざとらしくため息をついて見せる。どうにも反りが合わないクラインと俺が何故か仲がいいと思っている節のあるアインストには、俺もクラインもこの時ばかりは息ぴったりに「仲良くない」と言うのだが。 「さあ、もうシチューもずいぶんと温まったから早く着替えてきてくれ」 「了解」  鍋に目を落としたアインストの横顔を見ながら、俺はベッドルームに着替えに行った。 「なんかあったろ」 「……いや、何も」  テレビを見ながらスプーンを止めていたアインストは、素早く振り向きながらもいつもよりワンテンポ遅い返事をした。いつも通りに振る舞っているようで、ほんの少し元気がない。それを悟られまいとするのはプライドの問題ではなく、心配をさせないためだというのも分かっている。 「意外と顔に出やすいんだよなあ」 「私のことか」 「俺がめちゃくちゃ見てるからかもしれないけど」  それは怖いな、と笑った顔には屈託がない。その隙に潜り込むように俺は質問を重ねた。 「どーした」 「本当に……大したことじゃないんだ」 「いつも俺の大したことじゃない話を聞いてくれるだろ?」 「それは」 「お互い様というんだこの国では」 「私の国でもそうかもしれない」  本当に大したことじゃないともう一度前置きして、アインストは重い口を開いた。 「今日の夕方テレビを見ていて、世界遺産を紹介する番組だったんだが」 「好きだねその番組」 「いろんな国に行った気になれるから好きなんだ」  いつか必ず連れて行こうと心のうちに決意して続きを促す。 「今日はドイツの古城だったんだが……」 「ああ、なるほど」  アインストはこことは違う世界にある王国の王子であるという。勿論俺はその国を見たことはないけれど、話を聞く限りは俺たちが想像するお伽話の世界に近い。初めて会った時には、車に驚いていたし移動手段は馬だと言っていたから、中世のヨーロッパをイメージしていた。 「帰りたくなったか」  魔法でこの世界にやって来たというその魔法は当然のように片道切符で、アインストはたくさんのものを祖国に置いて来た。どちらかといえば昔から独立心の強かった俺は、高校卒業と同時にさっさと家を出たけれど、それでも二度と家族に会えないというのはちょっと想像に難い。 「帰りたいわけじゃない」  アインストは真っ直ぐに俺を見て言った。蛍光灯の安っぽい灯りの下でも深い海の色が綺麗だった。 「無理をしてるわけじゃない。本当に、帰りたいとは思わないんだ。ここに残ることは私が決めたことだから」 「俺のためにな」 「そうだな」  はにかみながらもアインストが頷く。 「ただ……会いたいとは思う」 「そりゃそうだよな」 「でもそんなのは私だけじゃないグレースだって、お母上を置いてきているし、クラインは……」  国一番の剣士だったというクラインには婚約者がいたらしい。それでも彼は主人に従った。その忠誠心にはとても敵わないと思う。 「私がそんなことを言うのは、甘えでしかない。二人は私に従ったのに文句ひとつも言わないで」 「そんなこと言ったらアインストがここに来たのは俺のせいってことになる」  俺の言葉にアインストが慌てた顔をする。そして意志の強い真摯な瞳で言った。 「それは違う。確かにここに残ろうと思ったのは今村がいたからだが、決めたのは私自身で誰の責任でもない」 「二人もおんなじこと言うと思うぞ」  アインストが言葉を詰まらせる。一緒に暮らしていて思う、アインストは責任感が強すぎる。一国の王子という立場にいたのだから仕方ないのかもしれないが。 「別に泣き言は言ってもいい。ここはお前の国じゃないから、気負わなくていいんだ」  スプーンを置くと、俺は困った顔をするアインストを引き寄せた。最初の頃は緊張が伝わって来たけれど、今は俺の腕の中でもリラックスしているのが分かる。俺の前でコロコロと代わるようになった表情も、全てが愛おしいと思う。 「そんなん、会いたいと思って当然だろ?そういうことは言ってくれよ。俺が、アインストの置いて来たものに代わることはできないけど、置いて来た人たちの分まで大事にする」 「……みんなに会いたい」 「うん」 「会って……私は幸せだから、心配しないでほしいと伝えたい」  背中に回った腕に力が入る。俺は同じ力で返す。 「俺も会ってみたいよ、アインストの両親とか兄弟に。不敬だって怒られそうだけど」 「父上も母上も怒らないと思うけれど、兄上には叱られる気がする。少しクラインに似ているかもしれない」 「げ、絶対気が合わねーな」  耳元に軽やかな笑い声が溢れる。 「姉上にも会わせたかったな」 「似てるっていう」 「そう、よく双子みたいだと言われていた。一番歳が近くて、仲が良かったんだ。幼い時はすごく可愛がってくれてて」 「小さいアインストは見てみたかったなあ。めちゃくちゃ可愛かったんだろうな」 「私も、子供の頃の今村が見てみたい」 「今度実家に帰ったら写真でも見せてやるよ」  自分が、そんなことを言うようになるなんて想像もしていなかった。相手の過去を知りたいと思うことも、自分の育って来た場所を見せたいと思うことも今まで一度もなかった。昔の自分が悪いとは思わないし、後悔もないけれど、今の一人だけを大切に思う自分も悪くないと思う。  俺はアインストを抱きしめたまま、大きなため息をついた。 「それはどういうため息なんだ」 「俺の中の天使と悪魔が戦ってんだよ今」 「天使と悪魔?」 「その悪魔が言ってんだ。あー今すぐ抱きてえなあって」 「……天使はなんて言ってるんだ」 「抱きたい」  アインストが思わずという感じで吹き出した。体を離して向き合う。憂いの消えた顔で俺を見ている。 「同じじゃないか」 「抱きてーけど今じゃないだろってさ」 「じゃあとりあえずご飯を食べよう」 「だな。せっかくのシチューが冷める」  もう一度、二人でいただきますと手を合わせてスプーンを手に取る。卒業旅行に俺の地元に帰ろうかと言ったら、行ってみたいと海色の目を輝かせるアインストが可愛い。きっとなんだかんだで着いてくるだろう二人の従者も同行するなら騒がしい旅になるはずだ。  そんなもう少し先の算段と、今夜どうやって口説き落とそうかと目先の下心を抱えた俺の口の中で、柔らかく煮込まれた牛肉がほろほろと解けていった。
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