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「いかがでした? 逆さメガネの装着実験は」
「楽しかったです。聞いていた不快感も、吐き気とかもなくて、すぐに適応できたのかなと思います。左右の違いは少し難しかったですけどね。料理をする時はいつもの5倍は慎重になりました。あと用を足す時も…少し驚きました」
潮見という眼鏡をかけた若い女性は、大袈裟な気がするほど僕の話に相槌と頷きをした。
「なかなか珍しい例ですよ。あなたほど簡単にメガネに慣れてしまうのは」
我々にとっても貴重なデータが取れました。そう言って潮見さんは手を差し出した。1秒遅れて握手を求められているのだと気づき、手を出した。
「ありがとう」
それで話は終わりだった。僕の逆さまの時間も終わり、僕はただの僕に戻った。
「そういえば、蒼井さんは今日、いないんですね」
潮見さんは首を傾げる。猫が集中してものを見ているときにする仕草に似ていた。
「この研究室に蒼井なんていませんよ?」
「え、でも、最初に僕にメガネを渡してくれたのは」
「私が渡したんですよ? お忘れですか?」
彼女はふふと微笑んだ。5日前のことも記憶できないのかという馬鹿にした笑いなのか、僕の言ったことを冗談だと思ったのかはわからなかった。
研究室の扉を開ける。
眩しい光が、僕を包んだ。
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