朝焼けの黄昏、夕焼けの東雲

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8fa2190e-9860-41ff-971e-737b2c7a2991    蒼井と名乗る白髪の老人から逆さメガネを渡された。  何の変哲もない、とは言い難いメガネだった。メガネというよりはゴーグルで、レンズではなく斜めにした小さな鏡みたいなものが付いている。  蒼井氏によると、その斜めの鏡みたいなものは、反転プリズムというものらしかった。  反転プリズムは入射光線を反転することで、世界を逆転して見せることができるそうだ。今回は上下左右逆転するメガネで、上下だけ、左右だけ、なんていうメガネもあるようだった。  空が地面に、地面が頭上にあるというのは、一体どんな気分だろう。 「これをつけて5日間、普通に生活をしてください。夜は外していいですが、代わりにアイマスクをつけて裸眼でモノを見ないようにしてほしい。最初数時間か、数日か。慣れるまでは辛いと思うが、慣れれば普通に生活できるようになります。 このロッジの中は自由に使ってくれていいし、足りないものがあれば連絡してください。メールでも電話でも。 基本的に移動は自由だけれど、ここを出て左にまっすぐ行くと車が通る道路がある。そこへは近づいていいけど横断はしないでください。特に慣れないうちに出てしまうと、距離感が掴めず事故につながるかもしれないからね」  そうして蒼井氏は帰っていった。  僕は連れてこられた長野の山奥のロッジに一人きりになった。  春先の山は寒くて、孤独で、耳が痛い。 「3月20日、午後1時12分。逆さメガネを着けます」  ロッジにはトイレとお風呂以外の部屋に観察用のカメラが4つ付いている。逆さメガネを付けた僕の行動監視用だ。  僕は春から大学生になる。公立受験に失敗した僕は、学費の半分を自分で稼ぐことを親と約束した。卒業式に来てくれた高校の先輩にバイトを探していると話すと、拘束時間は長いが、なかなか割のいいバイトということで、今回の逆さメガネの実験を紹介してくれたのだ。友達も少なく、大学生活が始まるまですることが何もない僕にはとてもいい話だった。  逆さメガネをつけた。  つける瞬間までは、それはただのゴーグルだった。  つけた瞬間、自分の身体が回転したように感じた。  天井に、ロッジにあるテーブルと椅子が浮かんでいる。僕は思わず手で頭を覆った。テーブルが落ちてくると思ったのだ。けれどテーブルも椅子も浮かんだまま、静止していた。  僕も逆さのまま、落ちずに静止している。  これが逆さメガネか。僕は驚いた。床は天井に、天井は床に。自分は逆立ちしているように感じる。  世界が、逆さまになった。  僕は外の景色を見たくなり、立ち上がった。いや、逆立ちしたのか。はっきりとはわからない。  椅子を引き、出口に向かおうと一歩を踏み出す。少なくとも踏み出そうとした。しかし平均台の上を歩いているかのように平衡感覚がおかしくなり、身体が左右に揺れた。床に足を踏みしめているはずなのに、崖から落ちそうになっている感覚。  僕は今どこにいるのだろうか。感覚の混濁が、記憶を困惑させる。  目を瞑り、一度深呼吸をする。目を強く開き、ゆっくりと一歩ずつ前進した。向かっているのは出口か入口か。陽の光だけが僕を導いてくれるようだった。それに向かって僕は飛ぶように歩いていく。  右手を伸ばすと左側から手が伸びてくる上に上下も逆になっているからドアノブを探すのに苦労した。何度か右手を目の前で動かしてみたが、左手が動いているようで慣れない。自分の身体の感覚が、いかに視覚に頼っているかがよくわかった。  とにかく外の世界をと思って、5分ぐらいかけて左手のような右手でドアノブを掴んで回す。  開いた扉の外の世界が、とても眩しく感じた。逆さメガネは光に敏感にさせるのだろうか。ただ、感覚が研ぎ澄まされているだけなのかもしれない。  やっぱり、世界は逆さまになっていた。  空は地を覆い、草原が天に広がっている。鳥たちは逆さになって地面を泳ぎ回り、風が吹き陽を浴びた砂がきらきらと天から降り注いでいる。  生まれたての仔鹿よりもよたよたとロッジの階段を降りていく。手すりをつかんだはずなのに、左右の感覚が逆で心許ない。  それでも空の地面に降り立った時、僕は青空の海を泳いでいる気分になった。草原の波が寄せ、鳥がイルカのように足元を横切る。  太陽の光が、僕を下から照らしていた。雲がハンモックのように身体を揺らす。  風と遠くを飛ぶ飛行機の音だけが、何も変わらず、安心させてくれた。  気づけば日が沈むまで、僕はロッジの前にいた。被験者としては最低だろう。ロッジの中の無意味なカメラを可哀想に思う。  日が昇っていくのを見ながら、腕時計を外した。今が何時かなんて、逆さまの世界では必要ない。  やがて満天の星が全身を包み、真っ黒な草原がさわさわと頭を撫でた。  寒かったけれど、ずっとその世界にいたかった。逆さまで、孤独で、でも輝きに満ちている世界に。  きっとこのメガネをかけた瞬間から、全ては真逆になったのだ。  今の僕は受験を失敗なんてしていないし、友達はたくさん…いや、いなくても、寂しくなんてない。  自由に、そして、強く、なった。  僕を包む黒い空は輝きに向かっていき、  眩い陽の光は僕の中に飛び込んでゆく。  逆さまの僕は、僕を、好きになった。
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