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もう振り返らない。少し遅れて達輝が追ってきたけれど、私はスニーカで、彼は革靴ということも幸いしてか捕まることはなかった。
上野公園を抜けて、商店街へと飛び込む。人ゴミの中に紛れてしまえば、あとはもう店を目指すだけだった。
『郷土料理屋・いち』の前にたどり着く。今日も臨時休業の張り紙がしてあった。けれど、店内には明かりが灯っていたから江本さんはなかにいるのだろう。表も裏口も、どちらも鍵がかかっていた。脅迫犯を警戒しているのかもしれない。
けれど、私は鍵を預かっていた。信頼の証でロックを解除し、裏の戸を引く。
「…………これは佐田さん」
全く思いがけず、すぐそこ、ライトの落ちた暗い中に江本さんが立っていた。
たかが一日ぶりなのに、なんだか随分久しぶりに見た気がする。胸を熱くしていると、唐突に江本さんの右手が、私の腰に回った。
「えっと?」
そして、あろうことか、ぐいっと力強く抱き寄せられた。
「え、ちょっと!」
わけもわからず、されるがままになる。和服から甘い匂いが漂って、くらくらと脳が揺れた。
思いに気づいたばかりでは、色々と刺激が強すぎる。
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