三章 火野カブ漬け

1/38
前へ
/231ページ
次へ

三章 火野カブ漬け

三章 火野カブ漬け      一  バイトへ行く時は、いつも努めて静かに家を出る。 なるたけ音を立てないよう、そろりと移動しなくてはならない。とくに、リビングを通る時は要注意だ。ワイドショーに釘付けの母・加奈子の気をそらさぬよう、そーっと廊下へと抜ける必要がある。もし少しでも音を立てようものなら、 「また飲食でバイト? 暇ねぇ」 ほら、こんな風に小言が飛び出る。もう耳にタコができそうなほど聞いたフレーズだ。 「忙しいよ」 私はこう愛想のない返事をして、母の前から去る。 表立って対立しても、ただ決着の出ない揉め事に発展するのは、経験上分かっていた。「やめろ」とは口にせず、今みたく遠回しにぶつくさ言われ続けるのだ。 だから、煙が燻り始める前に私はそそくさと外へ避難した。 五時だけれど、まだまだ日ははっきりと明るかった。マンションのエントランスを出たところ、すーっと深呼吸をすると、下町の住宅街でも少しは新緑の香りがする。 季節はたしかに春から移りゆこうとしていた。けれど、母の態度はまるで変わらない。一貫して、私がバイトをすることには批判的な態度を取っている。 三ヶ月と期限も設けた。目標も決めた。いたずらにフリーターとして過ごしているわけではないのだから、文句を言われる筋合いはないはずなのだけど。 それに、母は私の目標に追い風が吹き始めているのを知らないのだ。 看板効果か、国見さんによるインスタグラムでの宣伝効果か、『郷土料理屋・いち』を訪れる人はこの一月で徐々に増え始めていた。私個人としても、江本さんに迷惑をかけないぐらいには仕事も覚えてきている。 そろそろバイトの一つ、認めてくれてもいい。
/231ページ

最初のコメントを投稿しよう!

76人が本棚に入れています
本棚に追加