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伊勢詣で
近鉄伊勢市駅に着いたのは、十二時ごろだった。実に見事な秋晴れだ。気候も暑くなく寒くなくちょうどいい。まさに行楽日和といった感じだ。午後二時に駅前集合なので、一度宿に行って、荷物を置いてくることにした。俺たちの宿は、駅から徒歩十分の距離にある旅館で、寶井さんがとってくれた。寶井さんもそこに宿泊することになっている。
地図に表示されている目的地に着くと、江戸時代の商人の家をそのまま旅館にしたような趣のある造りだった。俺と桃がロピーに着くと、すでに寶井さんはいた。空いている席に腰をおろし、寛いでいると、まだチェックイン時刻の前だったが、宿の人は部屋に案内してくれた。
部屋は華美ではないが、小綺麗で快適そうだった。広さも十分あり、三人で寝るスペースは十分ある。
「本当は水木さんには個室を取ろうとしたのですが、あいにく部屋が一室しか残っておらず…すみません」
「とんでもないです。何から何まで先生にやっていただき、こちらこそ申し訳ないです」
「やっぱり、水木さんに先生って言われるのは、まだしっくり来ないなあ」
光さんも桃も先生と言っているので、俺もそう呼ぶことにしたのだ。それに九鬼家と一緒にいる時、「先生」と呼んだ方が都合が良いように思われた。先生と教え子でなければ、関係を説明しづらい。
宿から伊勢市駅に向かう道すがら、先生が解説してくれた。
伊勢神宮の正式名称は単に「神宮」で、江戸時代は「お伊勢さん」と親しみを込めて呼ばれていた。名実ともに日本最大の神社である。一口に伊勢神宮と言っても、それは大小百二十五社の総称で、大きくは内宮(ないくう)と外宮(げくう)に分かれている。外宮の御祭神が衣食住の神である豊受大御神(とようけおおみかみ)、内宮の御祭神が天皇家の祖先と言われる我が国の太陽神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)である。参拝者は外宮、内宮の順にお参りしていく。これが大体どのガイドブックでも冒頭に書いてある基本情報である。ちなみに神の各が上なのが天照大御神だからか、賑わっているのは圧倒的に内宮の方で、境内の規模も外宮の数倍ある。
個人的には伊勢神宮の魅力は境内だけでなく、賑やかな内宮の鳥居前町(鳥居へ至るまでの町)「おはらい町」である、と思っている。江戸時代なんて想像することしかできないが、
当時の伊勢の賑わいを想像させてくれる風情がある。
江戸時代、まだ藩から出るのに許可が必要で、交通手段も発達していなかった頃、伊勢神宮に参拝に行くのは庶民の夢だったらしい。「一生に一度は伊勢参り」という言葉があったくらいだ。そんな夢のようなイベントにふさわしく、伊勢に来た旅人は資金を一切負担せずに、衣食住を提供してもらえたらしい。当時の庶民の暮らしからは想像もできないくらい華やかだった雰囲気の名残を「おはらい町」全体から感じることができる。ちなみに「おはらい町」の由来は、江戸時代にお伊勢参りを全国に広めた「御師(おんし)」と呼ばれる人たちの館が立ち並び、そこでお祓いが行われたことに由来しているとか。
当時の人々にとってお伊勢参りとは、お参りはもちろん、単に贅沢を楽しむだけの場ではなかった。各地から人々が集まっているため、伊勢に行くことは珍しい品々や生活の役に立つ品々、それに未知の知識を吸収するという商業的なメリットがあった。
以上のような情報を、俺は去年来た時に触れていたはずなのに言われるまで全然思い出せなかった。さすが専門家は違う。
*
九鬼流奈は皆から離れてヘッドホンで音楽を聴いていた。ボブの髪はピンクで、化粧は光さんよりずっと派手だった。左耳に三つピアスをつけている。なるほど。今時珍しいくらい「グレてます」を地で行くビジュアルだ。心なしか、眼光も鋭く、社会全体を睨んでいるようである。聴いている音楽はパンクロックだろうか。ちなみに着ているものはティーン向け雑誌に載っていそうな、カットソーにベスト、ショートパンツで、首から上に比べたらだいぶ大人しい。どうせだったら、服装も徹底して欲しいところだった。ゴスロリとか。
俺はこの二日間で仲良くなるのは難しいかも、と思った。しかし、先生はそんなことおかまいなしに、にこやかな表情で話しかけた。
「寶井です。大学で日本神話や文学なんかを教えています。拙いガイドですが、二日間よろしくお願いいたします」
「どうも」
表情は相変わらず険しいが、小さな声で少女は返事をし、軽く頭を下げた。まったく礼儀知らずというわけではないみたいだ。それから先生はご両親にも挨拶と自己紹介をして、俺と桃のことも紹介してくれた。ちなみに、この二日間、桃には便宜的に桃城健という名前が与えられている。なるべく名前を変えたくない、という思いがあったみたいだが「桃太郎なんでいう名前は少ないから、万が一にもバレるかも知れないぞ」と言ったら、あっさり了解してくれた。俺と同じ大学の先輩という設定にしてある。
俺と桃が自己紹介を終えると、みんなで伊勢神宮の外宮に向かって歩き出した。豊受大御神が祀られている外宮までは。近鉄伊勢市駅から徒歩五分くらいである。道すがら、九鬼光の父親に
「水木さんはコンサルタントですか。さぞ儲かっていることでしょうなあ」
と棘のある言い方をされて、少し戸惑った。確かに新入社員にしては多くもらっているという自覚はあるので、はっきりと否定もできない。とはいえ、桃を放し飼いにできるくらい広い庭付きの家を持っている九鬼氏だって、お金に苦労をしているようには見えない。実際身なりはかなり良く、正直に言うと同じ年代だと思われる自分の両親との差を感じてしまっている。うーん、コンサルタントが嫌いなんだろうか。
豊受大御神は、もともとは食物・穀物を司る神で、内宮の後祭神である天照大御神が、自分の食事のために、呼び寄せた、と言われている神様だ。だから、外宮ができたのは内宮ができた後で、五百年ほど経ってからである。
俺たちは外宮の表参道入口で地図を人数分もらい、外宮に入っていった。手水舎で、両手を口を清め、神楽殿を横目に見つつ、外宮の中心で豊受大御神を祀る最も神聖な場所であるご正宮を参拝した。ご正宮には神を祀るご正殿、お神宝を収める東西の宝殿があるのだが、それらの建物は垣に囲まれており、一般人は門前での参拝となる。
伊勢神宮には、外宮にも内宮にも、正宮に次ぎ尊いとされる別宮がある。ただし別宮は全て宮域内にあるわけではなく、かなり遠くにあるものもある。今回はとりあえず、外宮では多賀宮、土宮、風宮という宮域にある三つの別宮をお参りすることにした。別宮にもそれぞれエピソードがあって面白い。例えば、多賀宮は豊受大御神の荒御霊を祀る。荒御霊とは神の行動的で激しい側面を言う。天変地異を引き起こしたり、病を流行らせたり、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てたりするのは荒御霊の働きであると昔の人々は考えた。祟りを恐れた人々は、正宮で神のご加護やご利益を祈祷すると同時に、別宮で荒御霊を鎮めたのである。風宮と土宮は別の神様を祀ったお宮だった。
先生のガイドはとても分かりやすく、拙さのかけらもなかった。下手なガイドよりよほど上手だ。みんな先生の話に興味津々だった。俺も昨年来た時は、せいぜい祀られている神様くらいしか知らなかったので、今回の方がずっと楽しい。最初はだるそうな雰囲気を全身から醸し出していた九鬼流奈でさえ、次第に先生の方を見ながら熱心に話を聞いていた。リアルに先生なんだな、この人。しかもこの人の講義はきっと人気あるだろう。俺だって受けてみたくなった。
宮域内を写真を撮ったりしながらゆっくり見て回っていると、白人のカップルに写真を撮ってくれるよう頼まれた。外宮は思っていたよりずっと外国人が多かった。写真を頼んできた人たちは日本語があまり堪能ではないらしく、カメラを見せながら「ピクチャー、ピクチャー」と言ってきた。先生が対応してくれたのだが、ネイティブかと思うほど、流暢な発音だった。
「英語上手ですね」
俺より先に、九鬼氏が言った。
「ありがとうございます。海外に住んでいたこともありますので」
なんていう万能スペック。
外宮はあまり広くないので、ゆっくり回っても一時間あれば足りた。
外宮の出口付近にある勾玉池はほっと一息つける休憩スポットだ。そこで池を見ながら一休みすることにした。休みながら先生はみんなに言った。
「もしよろしければ、もう一箇所ご案内したい別宮があるのですが、いかがでしょうか?月夜見宮といって、その名の通りツクヨミという神様を祀るお宮なのです」
「夜の神様で、天照大御神の弟ですよね」
素早く反応したのは光さんだった。
「そうです、夜の神ツクヨミとその荒御霊を祀っています」
先生は日本神話について解説してくれた。
日本はイザナギとイザナミという二柱(神は一人、ではなく一柱と数えるらしい)が作ったが、この二柱は同時に多くの神々も生んだ。最後に生まれた三柱の神は「三貴子」と称されて尊ばれている、日本神話の最高神であるアマテラスは、この時最初に生まれた三貴子で、その後生まれたのが、ヤマタノオロチという怪物退治で有名なスサノオ(素戔嗚)とツクヨミ(月讀)である。アマテラスが昼を司る太陽神であるのに対して、ツクヨミは夜を司る月の神となっている。
このツクヨミは、アマテラスに勝るとも劣らない高貴な神であるにも関わらず、「古事記」や「日本書紀」では、その出生以外、ほとんど何も記されていないミステリアスな神様なのである。アマテラスやスサノオが、日本国の発展のために果たした役割がふんだんにしるされているのとは対照的である。その謎めいた部分が魅力的でもあるのだろう、神話好きの女性には人気のある神様らしく、ファンタジーものでは美青年として描かれることが多いそうである。
要は、日本神話の最高神であるアマテラスに匹敵するくらい、偉大な神様である、ということか。
「私のバイト先の御祭神なんですよ」
光さんは言った。そうだった。この子は神社で巫女さんのアルバイトをしていたのだった。
さて、先生が提案したその月夜見宮、日本神話への興味がほぼ一年ぶりに再燃し始めた俺は、ぜひとも行ってみたかった。九鬼流奈は来ないだろうと思っていたが、意外にも彼女は来ると言った。
「私がバイトしている神社は、うちの家族が昔からよく行っている神社なんです。だからきっとツクヨミの本社なら参拝してみたいのだと思います」
と光さんはこっそり俺に言った。
ツクヨミが祀られているお宮は、外宮と内宮とそれぞれにある。したがってタクシーで向かう時は「外宮の」と指示しなくてはいけない。表記も異なっていて、外宮のツキヨミノミヤは「月夜見宮」、内宮のツキヨミノミヤは「月讀宮」と書く。
月夜見宮は、外宮からまっすぐ北に延びる道を五分ほど歩くと着く。この外宮と月夜見宮を結ぶ道を歩いている途中、ふいに桃城健こと桃が、服の裾を引っ張った。俺と桃はペースを落として、集団の一番後ろに下がった。
「どうした?」
「匂いがする。水木についているのと似た匂い」
「いつから?」
「この路に入ってからだ」
俺はどきっとしたが、
「ものすごく気になるけど、今二人でこそこそ話すと怪しまれるし、みんないい気分しないだろう。後で話そう」
「分かった」
それから少し歩くと、目の前を通りが横切り、その向こうに鳥居が見えてきた。俺は桃の話を聞いて、少し観光気分が薄れてきたが、鳥居に近づくと、目の前の光景に心を奪われた。背筋がぞっとなった。周囲はまだ全然明るいのに、鳥居の奥は真っ暗闇で全く見えない。闇の世界が口を開いているようだ。いくら木々で茂っているとはいえ、こうまで光が届かなくなるものか。俺はその時、今まで見てきたどの神社よりも、いやどんな光景よりも神の存在を感じた。まさに夜の神だ。
月夜見宮を参拝した後、近鉄伊勢市駅に戻り、その日の観光は終了した。時刻は午後五時になろうとしていた。
「お疲れ様でした。少しでも楽しんでもらえたら、良いのですが」
「とんでもない。とても有意義でしたよ。ありがとうございました」
九鬼夫妻は先生にお礼を述べた。すっかり心酔しているようだった。月夜見宮から駅に向かう帰り道、先生はずっと夫妻と話をしていた。一方、九鬼流奈は不機嫌そうに一人集団から離れて歩いていた。俺と光さんは今日の感想を話し合っていた。俺が月夜見宮に感銘を受けたことを話したら、光さんは嬉しそうに、
「良かったら今度私がアルバイトをしている神社にもお参りに来てください。ここほど暗くはないですけど、結構近い雰囲気があると思います」
と話してくれた。それはとても興味深い。ただ光さんとの会話を楽しみながらも、俺はやっぱり先ほどの桃の話が気になっていた。
駅で明日の集合時間などのスケジュールを確認した後、先生は九鬼夫妻に提案した。
「明日、内宮を見学した後、おはらい町見学などは、自由行動にしませんか?きっとお父様、お母様が見たいものと光さんたちが見たいものは違うと思いますので。お子様たちは私が責任を持って帰りの電車の時間までに駅にお連れします」
九鬼夫人は少し思案して
「そうね、そうしません?」
と夫に問いかけた。九鬼氏は俺の方をチラッと見て
「私たちはのけものというわけですか」
俺と娘たちがいるのが気にくわない、と言わんばかりだ。ここまで露骨な態度を示されるとさすがに俺もムッとしてくるが、最大限平成を装った。この旅行中に仲良くなるのが一番難しいのは、流奈さんよりもこのお父様みたいだ。
「でも光も流奈も、若い方達だけの方が楽しいんじゃないかしら?それに私たちが見たい、お茶とかお菓子とか俳句館とか、子供たちはあまり興味ないと思うけど」
「光はそんなことはないだろう」
俺は「光は」という表現が気になった。じゃあ流奈さんは別にどっちでもいいのだろうか。夫人の声は厳しくなり
「流奈も久しぶりに楽しそうだったし、先生のおっしゃる通りにしたら?」
その声のトーンから、夫よりも寶井さんの方を信用しているようにも見えた。「最近じゃ両親も匙を投げ気味で。特に父親が…」という光さんの言葉が脳裏をよぎった。夫人のその一言が決め手となり、明日は先生の提案通り、内宮見学後は自由行動となった。
*
「結局流奈さんと話せなかったな。ちょっと無愛想だけど、不良っていうには大人しい感じでしたね」
九鬼一家と分かれて、今は旅館に向かって歩いている最中である。
「明日は内宮を見学した後、話す機会はあるでしょう。そう簡単に心を開いてくれる感じはしませんが、少しは彼女のことを知ることができるかも知れません。あと何よりも、せっかく来たんだから少しでも楽しんでもらえるといいですね。ねえ、桃くん」
寶井さんが桃の方を向いて言うと、桃は力強く頷いた。
俺は、月夜見宮に行く途中まで、すっかりリフレッシュ旅行の気分だったが、この度にはどうやら二つの裏目的が企図されているようだった。一つは俺の呪いを解くヒントを探すこと。もう一つは九鬼流奈の問題を解決する糸口を探ること。さっきの話の続きを桃としたかったが、その前に、駅までの道で先生が九鬼夫妻と熱心に話していた内容を知りたかった。
「先生がいなかったら、明日絶対俺たちと娘さんたちだけで行動できるようにはなりませんでしたよ。ところで駅に着くまでに一体何を話していたんですか?」
「光さんからお母様がお茶に興味があると聞いていたので、事前に調べておいたお茶や茶器のお店について。それからお父様は俳句がお好きだそうなので、合わせて俳句館のこともね」
寶井さんは人当たりが良く、頭の回転が早いだけではない。俺は大学の研究者は処世術に乏しい人たちだとばかり思っていたけれど、先生にその固定観念を見事に覆された。あるいは企業で働いていた時に身につけたものだろうか。俺の会社でも、先生ならなんなく俺の上司に気に入られることだろう。俺と違って。
俺の気持ちを知ってか知らずか
「水木さんの場合、お母様はともかく、お父様に気に入られるのは難しかったかも知れないですね。お母様の方は、礼儀正しい青年だという印象を持たれたみたいです」
これにはムッとした。九鬼氏の態度を思い出したせいもある。
「なぜです?俺が若いからですか?なんか会社にいて思うんですけど、あの年代のおじさんたちって、若い男に対してだいたい否定から入りますよね。」
日頃の不満を爆発させてしまった。話しながら思ったが、九鬼氏の俺への嫌味な態度は、会社の上司とすごく似ていた。先生は反対することもたしなめることもしないで、
「まあ、それも検討違いではないと思いますけど、今回に関しては、九鬼さんのコンサル嫌いが大きいと思いますね」
それは最初の挨拶の時にはっきりと感じた。
「もしかして大金はたいてコンサルしてもらった結果、事業がうまくいかなくて大きな損益を出したとか?」
俺はヤケになって言ったので、
「そうです、そういうようなことをおっしゃっていました」
と返され、逆にびっくりした。
「それじゃ、俺にはどうしようもないですよ。自分ではどうしようもない原因で嫌われているなんて」
そしてますます怒りが湧いてきた。
「それちょっと人として、おかしくないですか?」
「おかしくはないと思います」
先生が共感してくれるものだとばかり思っていたので、少したじろいだ。先生は若干厳しい顔つきになっている。
「あなたの気持ちも分かりますが、理屈で割り切れないのが人間でしょう?ある会社が嫌いだから、そこの社員も好きではない。ある学校が嫌いだから、そこの生徒が好きにはなれない。ある国が嫌いだから、そこに住む人たちを好意的に見られない。同じです。あなたが今の会社にいる以上、初対面ではどうしてもあなたを会社というフィルターを通して見てしまいます」
悔しいが正しい。
「九鬼さんはご家族も抱えており、流奈さんが大学に行けばまだまだお金がかかる。その失敗のせいで、ライフプランにも影響が出てしまったらしいですからね。あまり詳しいことは聞いていませんが」
逆恨みではないか、という思いは消えないが少しは同情も湧いてきた。先生はもとの穏やかな顔つきに戻った。
「繰り返しますけど、水木さんには何の落ち度もありません。ただ、九鬼さんの事情も察してあげてください。その上で、嫌だとは思いますが、できれば水木さんの方から、少しでも好かれる努力をしてもらえないでしょうか。僕からもわざとらしくならない程度に、水木さんが真面目な好青年であることを伝えておいたので。それにあなたは今日九鬼さんのきつい態度にも、礼儀正しく応じた。もしかしたら先方も今頃多少は反省しているかも知れませんよ」
「そうですかね」
「欧米だと、先にギブgive、つまり何かを与える、しかる後にテイクtake受け取るという考え方が一般的なようです。あなたの言う通り九鬼さん世代は若者には否定から入るので、水木さんの方から先に好かれる努力をする方が効率的だと思います」
俺はまだ釈然としなかったが、桃も俺を心配そうに見ていたので恥ずかしくなってきた。ああ、高校生の悩みを解決してやりたいと思っているのに、これじゃ俺が大人に諭されている高校生みたいだ。なんだかテンションが下がってしまい、桃とさっきの話の続きをする気力が失せてしまった。
先生は気を取り直すように、
「さあ行きましょう。水木さん日本旅館でくつろぐことあまりないでしょう。ゆっくりできていいものですよ」
「はい」
俺は努めて気持ちを切り替えようとして歩き出した。先生も歩き出した。桃は俺たちの間の緊張がなくなったと見て、嬉しそうにニコニコしている。本当は九鬼姉妹が心配なはずなのに、俺のことまで気にかけてくれて。お前は本当にいいやつだ。しばらく歩くとスマホにLINEが届いていた。光さんからだった。
お疲れ様です。今日すごく楽しかったです。父が随分失礼な態度だったのが、はたから見ていても分かりました。うちの父は中小企業のオーナーなので、投資や事業に失敗すると自分の収入にストレートに反映されるんです。今はだいぶ持ち直しているんですけど、十年くらい前に倒産寸前になったことがあって…それなのにパートナー然としていたコンサルが無傷だったのが、感情的に納得がいかなかったらしく、以来コンサル会社が信用できなくなったみたいです。でもだからといって、新入社員の水木さんを目の敵にするなんてどうかしていると思います。
父の無礼な態度にも関わらず、怒りもせず、穏健に接してくれた水木さんを、母は礼儀正しい青年だと褒めていました。もちろん私もそう思います。父も反省しているようだし、どうか許してあげてください。それでは明日も、楽しみにしています!先生や桃城さんにもよろしくお伝えください。
こんな文章が控えめなスタンプとともに送られてきた。先生の手のひらの上で踊らされている気がするが、光さんからLINEがきたという嬉しさが上回って、俺のテンションはまた上向きになった。やっぱり俺は単純な人間である。
*
旅館に戻ると、部屋にお茶とお菓子が用意されていた。先ほどは荷物を置いてすぐ出てきたので分からなかったが、先生が言う通り、旅館はとてつもなく快適だった。畳ってこんなに気持ち良かったっけ。一息ついてから少し早めの風呂に行くと、客は我々だけだった。桃は体を洗ってさっさと出ていったが、俺と先生はのんびり浴槽につかった。二人で占領できるのは贅沢すぎる広さだ。すこぶる気持ち良かった。風呂から出た後、備え付けの浴衣に着替えて、部屋でのんびりテレビを見ていると、仲居さんが夕飯の支度をしてくれた。食事は思ったよりも豪勢だった。
「寶井先生の頼みで、今日は特別に伊勢海老を用意しました」
仲居さんは言った。普段は別料金らしい。先生はここの常連らしい。そうすると、伊勢に何回も来ているということか。だとすると、俺の呪いを解くためのアイディア、というのは思っているより確かなものかも知れない。
伊勢海老以外の料理もとても美味で、しかも好きなテレビ番組を見ながら給仕してもらえるというのは最高の贅沢に思えた。食べ終わって、布団を敷いてもらう頃には羽根が伸びきっていた。時刻は九時前。土曜日のこの時間は飲みに出かけることが多いため、家にいることは少ない。俺はすっかり「久々にドラマでも見るか」という気分になっていて他のことは何も考えられなかった。桃が何も言わなければ。
「水木、そろそろいいか」
「何が?」
「さっきの話だ。月夜見宮に行く途中に俺が感じた匂いに関してだ」
決まっているだろ、と言わんばかりの勢いだ。すまない、すっかり忘れていた。ごめんな、旅館が快適過ぎてつい。
「神路通で何かあったのですか?」
先生がやや真剣な表情で聞いた。俺はまだ気合いが入っていない。
「カミジドオリ?」
「外宮から月夜見宮を結ぶ通りですよ。ああ、そう言えば私が皆さんに説明しながら歩いていた時、二人で後ろで何か話していましたね」
先生は完全に集中モードだ。桃もそうだ。
「異常な匂いがしたんです。今まで水木の呪い以外では嗅いだことのない匂い。ただ…」
桃が敬語を使っているのはなんだか変な感じだ。というか敬語使えたんだな
「水木についている呪いは嫌な匂いです。でもさっきは似ているけれど嫌な感じはしませんでした」
「神路通はその名の通り、神の通り道です。これほど神を身近に感じやすい場所は日本でもそうはない」
先生はすっかり桃の話を信じている。
「この世の常のものではない、という点では呪いも神も同じです。害のないものだったから、嫌な匂いもしなかったのではないでしょうか」
確かに、神が呪いや怨念よりも嫌なものだとは思いたくない。
「神路通は毎晩、ツクヨミがお宮の石垣の一つを白馬に変え、それに乗って月夜見宮から、外宮の豊受大御神の元へと通う道と言われています」
これまた興味深い逸話だ一件なんの変哲もない道にそんなエピソードがあったなんて。
「ツクヨミは夜を司る神。そして夜は昔から人外の領分と言われています」
先生はそこで一息つき、
「私が最初に伊勢行きを提案した時のアイディア、というか仮説は、桃太郎くんを神路通に夜連れていったら、人外の世界と接触することができるのではないか、ということでした。そうすれば、呪いを解く道筋につながる何かが得られるのではないかという淡い期待があったんです。本当に漠然とし過ぎていて説得力がなかったのですが。でも図らずもそこに可能性が見出せたということですね。桃太郎くん、来てくれますか?」
「行こう、水木」
と桃が俺を急き立てる。俺がポカンとしていると
「なんだまだボーッとしているのか。だから神様に会いに行くんだ。人外の世界を司る神様になら、もしかしたらあんたの呪いを解く方法を聞けるかも知れない」
「ちょっ、ちょっと待って」
「なんだ?」
「つまり、今神路通に行けば、神様に会えるって言いたいのか」
「そうです」
先生が答える。桃は何を当たり前のことを言っているんだ、という表情をしている。
「あなたの考えていることは分かります。私も、今までに神路通で、神を見たなんていう話は聞いたことがありません。少なくとも現代では。江戸時代にはあったらしいですけど」
伝説じゃないのか、と喉元まで出かかった。
「確かに普通の状況ならば、面白い言い伝え、で終わります。しかし今のあなたを取り巻く状況は普通ではない。普通ではない状況ならば、神も姿を現すかも知れない」
普通じゃない状況と言われても、俺はいまだに呪いをかけられた実感が湧かないのだけれど。唯一の不思議と言えば、やはり桃の存在そのものだ。
「行って損することはありません。何もなければ月夜の散歩をしたと思えばいいじゃないですか。桃太郎くんはあなたのこれまでの常識の中になかった存在のはず。したがってもうこれまでの常識で物事を決めてかかる必要はないはずです。特に否定の方向への決めつけは」
そう言えば以前桃にもそんなこと言われた覚えがある。自分だけが、行動力にも想像力にも欠ける人間のように思えてきて、情けなかった。
「分かりました。ぐずぐずしていてすみません。何かあるかも知れないなら行きましょう」
「せっかくなので、ドラマ見終わってからでいいですよ」
結局宿を出たのは十一時近かった。俺は先生のお言葉に甘えて、ドラマを最後まで見てしまった。ごめん桃。
外宮側から神路通に入る時に、先生が注意した。
「ツクヨミは道の真ん中を通ります。だから真ん中を歩いて神のお通りを邪魔することはしてはいけません。江戸時代にはその話を信じないで真ん中を通った者が、神の姿をもう適して、それこそ呪いを受けた、という話を聞いたことがあります」
「どんな呪いですか?」
「気が狂い、体の自由が利かなくなったそうです」
そいつはゾッとする。俺たちは道の左側を通ることにした。時刻は午後九時少し前だ。風が涼しい。先日まで九月に入っても暑さは相変わらずと思っていたけれど、いつの間にかしっかり秋になっている。とても気持ちがいい。そして月がすごく綺麗だ。そういやもうすぐ中秋の名月とかじゃなかったっけ?隣にいる先生は布袋を持っている。そんなの持っていたっけ?
「それなんですか?」
「神様にお願いごとをするならお供えがあった方がいいのではと思いまして。気休めですけど。まあ、もし会えなかったら、我々で食べましょう」
「いいですね、月見でもしますか」
「月の神の御前で月見か。オツですねえ」
なんて軽口を叩き合いながら、先生の準備の良さに内心舌を巻いていた。でも先生心なしか陽気だな。
「先生、なんかご機嫌ですね」
「いやあ、水木さんがドラマ見ている間、お酒飲んじゃって」
なんと。
「どうだ桃、何か感じるか?」
「いや、昼間と同じ匂いだ。若干薄れている」
「ということは、まだツクヨミは通っていない可能性が高いですね」
俺が言うと、先生は頷いた。俺たちはしばらく歩いた。途中、昼間は気が付かなかったが、注意深く周囲を観察していたせいか「ここは神路通」という看板と、神路通についての解説が書かれている看板がちゃんとあったことに気が付いた。解説の中身は寶井さんが説明してくれたことと同じ内容だった。しばらく歩くと、左手に小学校が見えた。あともう少し歩くと、月夜見宮だ。
「このあたりで少し待ちます?それとも月夜見宮まで行きます?」
俺は言った。
「そうですね…」
先生もすぐには決めかねている。桃が控えめに言う。
「人外の存在がこの世に姿を現したり、人の世ではありえないやり方で姿を変えたりするところは、本来人に見られてはいけないことです。だから俺たちが月夜見宮で待機していたら、姿を現さないかも知れない」
俺は思っていることを言った。
「江戸時代にはこの道で神様と遭遇したという伝承はあるんですよね?じゃあ月夜見宮でツクヨミに会ったという話は?」
「私の知る限りないですね」
「じゃあ、前例がある方がいいのではないかと」
先生は愉快そうに笑った。
「それも正しい考え方ですね。じゃあここで待つことにしましょう」
時刻は十時になろうとしていた。三分ほどして俺は言った。
「いつまで待ちます?」
沈黙が流れた。誰もその点までは考えが及んでいなかったと思われる。
「すみません、その点までは考えが及びませんでした」
先生が申し訳なさそうに言った。もちろん自分のことを棚に上げて先生を責める気持ちはない。全くない。俺はそこまで横柄な人間ではない。とは言え一晩中待っているわけにもいかないので、俺は控えめに提案した。
「昔から妖怪が出るのは、丑三つ時って言いますよね?あれ時間で言うと何時でしょうか?」
「二時から三時くらいかと」
「あと四時間くらいか、他に決め手がなければ三時くらいまで待ちます?何なら俺だけ残ってもいいですよ、幸い気候もいいですし」
「いや、私も待ちましょう。残念ながら他に決めてはありません。水木さんナイスアイディアです。明日の集合時間は午後二時半なので、三時に宿に戻ったとしても、なんとかなるでしょう。ただ一回旅館に戻ってよろしいでしょうか?時間つぶしに本を取ってきたい」
「もちろんですよ。桃は?」
「何がだ?」
「何って、待つかどうかだよ」
「俺がいないと意味ないんだろ」
「あ、そうだった」
先生を待っている間、桃と二人で月見をした。
「悪いな、お前が旅行に来た目的は流奈さんのお守りだったのに」
「気にするな。思ったより大丈夫そうだった。それどころか東京にいる時よりも、こころなしか生命力が回復しているように見えた。これも伊勢という場所の力かも知れない」
「良かった。俺も正直、どんなにヤバい子かと思っていたんだけど、少なくとも危なっかしいところは全然感じられなかったよ。桃は何をそんなに心配していたんだ?」
「たとえば、夜眠れないことが多いらしく、みんなが寝静まった後、深夜に出かけてしまうんだ。特に目的があるわけじゃないが、夜だと心が落ち着くみたいだ。反対に日中はほとんど何もやる気がおきないらしい」
なるほど。女の子で夜の散歩グセは心配だ。幸い俺は、どちらかというと夜はちゃんと眠れる方だが、そうじゃない人がいることも知っている。
「桃は流奈さんにどうなって欲しいんだ?ちゃんと卒業できればそれでいいのか?それとも大学に言ってもらいたいのか?」
「分からない。けど、元気になってもらえればそれでいい。でもそうだな、ちゃんと卒業して、進路は決まって欲しい。先行きが見えないのは不安だ」
悪いとは思いつつ、苦笑してしまった。
「親みたいなこと言うね。一応向こうが飼い主なのに」
「元の主人がそう言っていたからな」
そっか。と俺は言った。
「最後まで心配してたんだ、流奈のこと。このまま何もできなかったら、俺は主人に顔向けできない」
立派だよ、お前は。俺よりずっと。それから思った。こいつが人間の姿で俺のところにやって来たのは俺が呪いを受けたからだ。そしてそれを解決する過程で、先生にも相談することになった。もし俺が呪いを受けていなかったら、こいつは一人(一匹?)で、誰の力も借りずに悩んでいたのだろうか?
「なあ桃」
「なんだ?」
「これからは俺もお前の力になりたいと思ってるんだ。だからできることあったら遠慮なく言ってくれ。ただ、できることあんまりないと思うけど」
桃は俺を見て言った。目がトロンとしている。さてはこいつ、俺がドラマを見ている間先生と酒飲んでいたな。今頃酔いが回ってきたのか。しかし、こんな状態で大丈夫だろうか。
「なんだ、お前やっぱりいいやづだな」
「やっぱりってなんだよ、そうじゃないと思ってたのか」
「暗そうなやつにみえる。髪少し短くしたらどうだ?」
俺は桃を小突いた。その時先生が戻って来た。暗くて見えないが手には文庫サイズの冊子みたいなものを持っている。随分薄い。けれども先生がそれを読んで時間を潰す必要はなかった。なぜなら、ほどなくして桃が緊張した面持ちになったからだ。
「どうかしたか?」
「昼間の匂いが強くなっている。月夜見宮の方からだ」
「お前、酔いは?」
「醒めた。神気にあてられた」
俺たちは月夜見宮を凝視した。
しばらく凝視しているとうっすら馬に乗った人影が見えてきた。全身が緊張してきた。
先生は俺の表情をみて聞いた。
「何か見えましたか?」
先生には見えないのか?
「前から馬に乗った人影が」
「私には見えません。桃太郎くん、見えますか?」
「見える」
人馬の影が近づいてくる。かなり近いのにまだ影しか見えない。まるでその人馬の周囲だけ一層濃い暗闇が覆っているようだ。まるで月夜見宮の暗闇をそのまま纏ってきたかのように。
俺は金縛りにあったように動けなくなった。他の二人も動く気配は感じられない。人馬はゆっくりと神路通の真ん中を進み、俺たちの前を通り過ぎようとした、
その時、ワン!という犬の吠える声が聞こえた。
それで金縛りが解けた。隣を見ると、そこには人間の姿はなく四国犬の桃がいた。その声を合図に闇に包まれた人馬の動きは止まり馬上の人影がこちらを向いた、ように見えた。
「私に声をかける胆力があるとは。だが、人の姿をしたままというわけにはいかなかったな」
若い男性の声。高くも低くもない。ただ明瞭な声だ。俺はとうとう本格的に人外の世界に足を踏み入れてしまったみたいだ。
*
「何か用か」
言葉が出ない。息を吸ったり吐いたりするだけで精一杯だ。このチャンスを逃すわけには行かないのに。桃が吠える。
「私が何者か知った上で呼び止めたのなら、その勇気に応えて話だけでも聞こう。初めから人ならざるものだと分かっていたが、呼び止められることがなければ素通りするつもりだった」
桃に頼っている自分が情けない。かろうじて横に動かして先生の方を見ると、その表情から事態が把握できていないということが、読み取れた。
「そこの男には私の姿は見ることができない。お前たちは特別な状態にあるからおぼろげに私の姿を見ることができる。もっとも、私がその気になれば、普通の人間にも見えるようにすることはできるが」
「お願いします。この人のおかげで、あなたにお会いすることができたのです。あなたとお話させていただくのに、この人の力が必要です」
そう言ったのは俺ではない。桃だ。俺は今、犬の姿の桃の声を聞くことができた。
「いいだろう。ただし、私の姿が見えるようになったら、平常心ではいられなくなる人間が多いからな。どうなっても知らないぞ。そこの人間は動けない程度で済んでいるが、昔は気が触れてしまった人間もいた」
恐ろしいことを言う。先に言ってくれ。しかしもう手遅れだ。ツクヨミと思しき人影を覆っている闇が徐々に薄れ、白い馬と平安時代に貴族が着ていそうな衣装を身につけた長身の青年の姿が浮かび上がってきた。それでもまだ闇は立ちこめており、顔つきはぼやけている。表情が読み取れない。隣をみると、先生は目を見開いて、驚愕した表情を浮かべている。
「ほう、まだ完全に闇を取り払ってはいないのに私の姿が見えるとは。お前たちも並の人間ではないな。常ならば、明瞭な形を取らなければ、人間に気づかれることはないのだが。しかし、私と会話することはかなわないようだな」
ツクヨミは楽しそうだ。寶井さんも俺と同じように固まっている。全ての動きが止まったような時間が流れる。多分数秒しか経っていないけれど、とてつもなく長い時間に感じる。ダメかと思った時、先生が声を絞り出した。
「唵(オーム)!」
信じられない話だが、それで先生の硬直は解けたようである。流れるような動作でツクヨミに頭を下げる。
「お目にかかり光栄でございます。心ばかりですが、お納めください。酒と食べ物でございます」
そして、布袋を差し出した。ツクヨミは馬上から受け取る。確かに俺と同じように金縛りにあっていたのに。なんで動ける?なんで喋れる?どんな魔法を使ったんだ?今のコトバはなんだ?
「これはかたじけない。ありがたく頂戴する」
表情が読み取れなくても、馬上のツクヨミが気を良くしたのは分かった。俺は全身が震えた。これまでの人生で、この時ほど隣にいる誰かを心強いと思ったことはない。と、思う間も無く、先生は俺のヘソの下あたりに手のひらを強くあてグッと押した。ウッとなったが、ようやく金縛りが解けたようだ。そんな俺たちの様子にお構いなく
「それで要件は?察しはつくが」
「私のみたところ、この者には呪いがかかっています」
「そのようだな」
「呪いを解きたいのです。お力をお貸しいただけないでしょうか」
「どのような呪いか分かっているのか」
「詳しくは…ただ何者かの怨念なのではないかと思っております」
「当たらずとも遠からずと言ったところだ。だが呪いをかけた者は人ではない」
「神…でしょうか?」
先生が聞いた。
「そうだ。神はごく稀に人に負の印をつける。特に神々自身の怨念が存在する地ではちょっとした拍子に荒ぶる魂が呼び起こされる」
印とは呪いのことだろう。
「お前の印を見たところ、まだそれほど深く蝕まれてはいない。しかし自然に消滅するほど弱いものでもない。さて、あまり時間もない。印を持つものよ、素早く答えろ。お前はどこから来たのだ」
ツクヨミは俺の方を向いて尋ねた。
「東京です」
「平時はそこで生活を送っているのか」
「はい」
「大都会で平時生活をしていて神の呪いを受ける機会は限られる。神々の祟りに関係する場所に行った覚えはあるか」
「伊勢神宮以外では、昨年出雲大社に行きました。それが関係があるかも知れないと思っています」
ツクヨミにとってもそれが答えだった。
「おそらくそこだろうな。最初から国津神(くにつかみ)の仕業ではないかと疑っていたが、これで場所も特定できた。あそこは神々の怨念が渦巻く場所だ。しかも非常に強力な」
「国津神?」
「出雲系の神様たちのことですよ」
あとでお話しします、と先生は小声で耳打ちする。
「あまり人間の問題に直接は介入したくないのだがな。この酒と神饌(しんせん)に免じよう」
そして桃の方を向いた。
「それからこの犬にもな」
それから俺の方を向いた。
「二人に感謝するが良いぞ。では、これから言うことを聞け」
伊勢の夜空に、銀色の月が煌々と輝いている。神秘的なことが起こるとしたらこんなにふさわしい場面はないように思える。
*
旅館に戻ると午前一時を過ぎていた。浴衣に着替え直し一息つくと、ようやく考えを整理して話すことができるようになった。
「今更ですけど…すごいことですよね」
「まったく!普通は体験できないことです。大学の同業者からもさぞ羨ましがられるでしょう。もっとも誰も信じてくれないでしょうけど」
先生も珍しく興奮している。
「それにしても、良かったですね、ツクヨミが協力的で」
「でも上手くいくでしょうか?」
「それは明日にならないと分からないですよ。心配なのは分かりますが」
部屋には俺と先生の二人だ。桃は庭で犬の姿に戻って寝ている。もともと桃はそうするつもりだったらしい。彼は努力して人間の姿を保っているのであり、意識がなくなると本来の姿に戻ってしまう。
「あのお疲れのところ、申し訳ないのですが…」
「分かっていますよ」
先ほどのツクヨミとの話だ。「国津神」という言葉が出てきたあたりから、俺は半分くらいしか話についていけなくなった。しかし、あまり初歩的な質問で時間を取らせ、月の神様を不機嫌におさせてしまうことが怖かった。とりいそぎ先生が会話を進め、あとから分からないことは先生に解説してもらうことになっていた。
昼間話したことの繰り返しになりますが、と先生は解説を始めた。日本神話の流れは、おおざっぱに言えば次のようになっている。この国はイザナギとイザナミという二柱が作ったが、この二柱は同時に多くの神々も生んでいる。最後に生まれた三柱の神が「三貴子」なのだが、太陽神アマテラス、夜を司る月の神ツクヨミと同じ時に生まれたもう一柱が、スサノオである。
スサノオは、暴れん坊であったため、神々が住む「高天原」を追放されてしまう。この時スサノオが降り立ったのが、出雲の地である。そして出雲の地に腰をおろしたスサノオの子孫、オオクニヌシ(大国主命)が地上世界を平定していく。ここで言う地上世界とは、スサノオが降り立った出雲地方とその周辺を指す、という見方が通説だ。そのため、国津神のことを出雲系の神々とも言うそうである。
「スサノオ、オオクニヌシに代表される地上世界に根を下ろした神々を国津神と言うんです。それに対し、アマテラス、ツクヨミのように高天原に住んでいる神々のことを天津神と言います。そして天津神のリーダーがアマテラスです」
「日本人にとっての最高神は、地上を平定した国津神ではなく、神の国に住んでいるアマテラスなんですよね」
俺なら自分たちの住む世界を平和にしてくれた神を崇めたいと思う。そう口にしたら、
「国津神は天津神に地上を譲ったんですよ」
これは「国譲り」といって、日本神話において重要なエピソードとなっている。簡単に言うと、アマテラスたち天津神にオオクニヌシが自分の支配する地上を、譲ったのである。
「この時、日本の支配権を明け渡す代わりに、出雲に大きな宮殿を建てさせました」
「それが出雲大社ですか」
「そうです。昔は以前よりも倍の高さがあったらしいですよ」
「それにしても、なんだか都合の良い話に聞こえますね。他人が平定したその後に、その土地をもらって、その代償が立派とはいえ、神社一つなんて、譲り受けたというより、征服したっていう感じがします」
俺が言うと先生は笑った。
「歴史を語る側からすれば、自分たちが仕える天皇家の先祖を悪者にするわけにもいきませんからね。地上世界の支配権をもらった時、降臨したのが、アマテラスの孫のニニギ(瓊瓊杵尊)という神です。そして初代天皇は、ニニギのひ孫、ということになっています」
歴史は勝者が作るものかあ。そして神と人がつながった。
「ですから出雲大社は、国津神たちの恨みを鎮めるために建てられた、という位置付けかも知れませんね」
これでやっと俺はピンときた。
「ああ。だからオオクニヌシは弱者に共感しやすいんですね。そして、出雲は、神々の恨みも存在している場所である、と」
「そのようです」
これでようやく、先ほどのツクヨミの話が理解できた。
ツクヨミと先生の会話を反芻する。
「出雲大社は国津神たちの鎮魂の社。そこに封じ込められた国津神たちの恨みが、ちょっとしたはずみで発動した、ということですね」
「そうだ、オオクニヌシの荒ぶる魂の成した業だろう」
「荒ぶる魂?」
「荒御霊のことですよ」
ああ、神の攻撃的で激しい側面、人々に害をなす働きをする部分のことだ。
「私が見たところ、出雲のオオクニヌシは長いこと不満を抱いている。天津神に国を譲り渡し、歴史の彼方に消えていったオオクニヌシたち国津神への畏敬の念を忘れた人々にもだ。だから時折り、抑えていた荒ぶる魂が暴れて周囲に負の影響を及ぼしてしまう。そして負の力の向かう先は、出雲の土地に住む人間ではなく、この国の中心にいる人間に向かいやすい」
中心地、すなわち東京。しかし、これには若干抗議したい。そもそも俺は出雲大社に参拝に行ったのだ。なのに、なぜ呪われなくてはいけないのか。
「東京から出雲への参拝者は多い。特に神無月には縁結びを祈願しに来る者は。しかし、その中には自分が参拝する出雲大社の神に関して、名前すら知らない者もいる。名前すら知らずに、己の欲望の成就のみを呼びかける姿のどこに畏敬の念があるのか」
それはその通りだ。昨年旅行前に、様々なウェブサイトや雑誌で、出雲は縁結びのパワースポットとして取り上げられているのを見た。そこには神の名前やエピソードについても書いてあったと思う。ただ記憶に残っているのは「縁結びの神社」というフレーズだけだった。
例えば、伊勢神宮に参拝に訪れる人の多くはアマテラスの名前くらいは知っている。それすら知らずに来る人でも、神を恐れ敬う心はありそうだ。でも出雲の神についてはあまり知られていない印象はある。
隣をみると、桃は緊張が解けて力が抜けたのか、うつ伏せになっている。
「自分を慕ってやって来る人間の願いを、多くの神々は無下にはしたくないものだ。だが、自分の願いさえ叶えてくれるのならば相手は誰でもいい、という態度では神々も不機嫌になろう」
まあ日頃雑に接しているのに、困った時だけ助けてくれと言われても、手を差し伸べる人間はほとんどいないだろうな。
「つまり年に数えきれないくらい来ている東京からのそういう参拝客の中で、たまたま自分が選ばれたということでしょうか」
ツクヨミは頷く。やっぱり神様の八つ当たりに運悪く当たったようなものではないか。
「オオクニヌシはもともと心優しい神なので、自分を敬ってくれる人間や立場の弱い人間に同情しやすい。例えば出雲地方に暮らす人々に対して、無意識にでも失礼な言動がなかったか振り返ってみるのだな」
あるわけない、と言いたかったが、残念ながらそんなことはなかった。俺は大社の中で、深く考えもせず観光業で生計を立てている地元の人々を見下す発言をしてしまった。俺は母親の言葉を思い出した。「あんたはたまに遊びにいくだけだからいいけど、住んでる人たちは自分たちの生活をもっと便利にしていきたいし、もっと豊かな暮らしがしたいの」。俺の秋田の祖父も世の中の変化の速さについていけるか不安に感じている。じゃあ出雲の住民だってそうだろう。そこで昔ながらの生活している人だったら。産業を守ろうとしている自分たち仕事や生活は大丈夫か、そう思いはしないだろうか。
それに、である。考えてみればそういう人たちがいるおかげで、出雲大社という存在やその歴史・文化が現在まで残っているのではないか。出雲の神々がその人たちの味方をしたいのは当然とも思えた。運が悪いことこの上ないのは確かだが、最後のスイッチを押してしまったのは自分自身か。
「荒御霊の印を解きに行くか?」
ツクヨミに問いかけられて、我に返った。考えるまでもなく、そのために俺は伊勢に来たのだ。はい、と頷く。桃を見るといつの間にか、四つ足で立っている。ツクヨミはゆっくりと、左腕を天に向けて伸ばした。なんだかサッカー選手がゴールを決めた時のガッツポーズのようだな。次に、伸ばした手の掌を上に向けて開いた。まるで月の光を集めているように見えた。それから腕を下ろし、俺に手を差し出した。手のひら中には三日月をもう少し丸くした形の石がある。これは知っている。以前出雲で買ったことがある。
「勾玉ですね」
「そうだ。これを持っておけ。呪いを解くにはこれと、もう一つ神器が必要だ」
「もう一つの神器?」
「鏡だよ。今私は持っていない。アマテラスの持ち物だ。アマテラスには私から伝えておく。お前たちは明日、日が登る頃、内宮に行き、宇治橋を渡って境内に入れ。そこに神の使いが来るはずだ。ただしあまり遅くなるなよ。その使いがいつまで待ってくれるかは保証できない。その神の使いがもう一つの神器を授けてくれるはずだ」
俺にその使いが分かるだろうか?もし使者に会えなかったらどうするんだ?といった不安が波のように押し寄せてくる。しかしツクヨミは構わず続ける。
「勾玉はお前が持っていろ。しかし、もう一つの神器は女性に預けろ。アマテラスが授けた神器の所有者は女性でなければならない」
なんだって?じゃあ誰か女性の協力者が必要ということか?一体誰がこんな話を信じてくれるというんだ?俺のツクヨミに対する畏敬の念はだいぶ薄れ、心の中でがんがん突っ込みを入れていた。
「神器の所有者となるには、最低でも七日間は手元においておかなくてはいけない」
「そうすれば誰でも所有者になれるのですか?」
「ああ、基本的に七日間手元においた人間かもしくはその家族が所有者になれる。鏡は女性に限定されるが。手元に置いておくのは本人でも家族でも構わない」
要は家族所有ということか。
「そしてお前とその者で、神器を持って出雲大社へ行き、オオクニヌシの荒御霊を鎮めるのだ。出雲にも使者を使わしておうっから、あとはその使者に従え」
「その女性ですが、ただ鏡を持って来さえすれば良いでしょうか、それともこの話を信じてもらう必要があるでしょうか?」
やばい、ちょっと質問攻めし過ぎている気がしてきた。
「信じてもらう必要はある」
ただでさえハードルが高かったのに、さらに難易度がアップした。この時点で、俺の中で候補は一人しかいない。先生はどう思っているだろうか?
「オオクニヌシの荒御魂が時折暴走してしまう原因は、間接的には我ら天津神にあると言えなくはない。したがって多少は手を貸そう。もし今その女性に心当たりがあるなら、今夜これからその者とその家族に夢で伝えることはできる」
もう少し手伝ってくれてもいいものを…とは思ったが、それでも何もないよりはマシだ。夢に出てきた通りに神器を渡されたら、多少は信憑性が増すはずだ。
「名前を言うだけでいいのですか?」
「名前と住所、それから大まかな特徴だ」
名前はともかく住所とは。しかし、まずは相手だ。しかもすぐに決めなくてはならない。俺は自分の心当たりと先生のそれを照合する。
「先生、心当たりありますか?」
「多分、水木さんと同じです。九鬼光さん以外にいますか?」
いるわけない。決まりだ。
「住所ですけれど、分かります?」
「宿の名前なら。ただ部屋までは…」
俺はツクヨミに聞く。
「宿の住所が分かれば、宿泊者の中から見つけてくれますか?」
「良かろう、年齢や年恰好、誰といるかなど特徴を教えてもらえれば、該当する人物を探し出そう」
助かった!俺はスマホで宿の位置を確認する。
「ほう、いつの間にかそんな神器を発明したのか。前回人間と会った時は持ってなかったな」
前回ってどうせ江戸時代でしょ。
「ほんの十数年の間に大したものだ」
え?そんな最近に?案外頻繁に人に目撃されてるじゃないか。
「お前の呪いの解き方だが、その勾玉をお前が所有し、もう一つの神器にも所有者ができたら、すぐにも解くことができる。勾玉を身につけたまま、鏡に自分の姿を映し、呪いに対して、去れ!と、力強く念じよ。念じる言葉は何でも構わぬ」
俺はようやく自分の呪いを解くゴールが見えた気がした。そんな俺の思いをよそにツクヨミが言った。
「オオクニヌシには、もうこのような暴走の仕方はしないよう頼んでく。だから許されよ」
その声に、はじめて誠意のようなものが感じられた。考えてみれば、この神はなんだかんだで尽力してくれたじゃないか。神である以上、人間に傲慢なのは目を瞑らねば。
ツクヨミは俺に顔を向けて声をかけてくれる素ぶりを見せた。達者でな、とでも言ってくれるのかと期待したが出てきたのは違う言葉だった。
「なるほど。確かに今のお前は、呪いにかかりやすそうな性質を帯びている」
神様にそんなこと言われると実にショッキングである。思っていても言わないで欲しい。
「まあ運気の影響が大きい。今に変わるだろう。ついていなかったな」
これでも慰めてくれているのだろうか。でもそれ以上はフォローしてくれることはなく、ツクヨミは外宮の方を向いた。馬は歩き出した。横をみると先生が頭を下げている。俺も慌てて、頭を下げた。
「最後に忠告だ。神器はそれ自体大きな力を持っている。長い時間保有していると、ろくなことにはならん。要件は速やかに片付けよ。保有している間は丁重に祀っておけ。そして言うまでもないが、くれぐれも他の者の手に渡らせることがないように。」
馬を進めながらそう言うと、その姿はまた闇に包まれ、外宮の方に消えていった。空を見上げるといつの間にか雲が出ていて月を覆いはじめている。明日の天気は崩れるかも知れない。
つい一時間前の出来事なのにずいぶん昔のことのように思える。やっぱり夢だったのではないだろうか。時刻は午前二時前。明日は、というよりすでに今日だが、日が登る頃、内宮に行き境内に入れと言われた。日の入り時刻を調べると、五時半頃に内宮の指定された場所にいなくてはいけない。睡眠時間を確保するためにすぐにでも寝た方が良いのだろうが、先ほどの会話を思い出すと俺はまた興奮してきて、寝付けなかった。興奮の一方で、不安も大きい。いくら光さんが信用できそうな人間だからと言って、あの話を信じるかは大いに疑問だ。しかしまあ、明日気兼ねなく話せる場ができて良かった。
「先生、まさかこういう事態を見越して、ご両親とは別行動しようと思ったんですか?」
「まさか。こんな事態を予想できたら、もう人間じゃないですよ。あの場で言った通り、若い人たちだけの方が気兼ねなく交流を深められると思ったからです」
「ですよねえ」
「人とのつながりは貴重ですよ。それに流奈さんも、もしかしたら水木くんになら心を開いてくれるんじゃないかと思っています」
「俺に?そうですかね」
大いに疑問である。
「あの年頃の女の子には、少し年上のお兄さんが、いい相談相手になると思うのです。残念ながら彼女には今そういう存在がいないようなので」
それは分かる。その傾向は女子高生に限らず、大学生、もしかしたら社会人にだって当てはまるかも知れない。ただし、相手によると思うが。それにしてもこの人は、あんな状況を経験しながらも、もう一つのミッションのことも忘れない。関心したが、今は話題をそちらに移したくなかった。そして絶対聞こうと思っていたことを思い出した。
「ツクヨミが姿を見せた時、俺金縛りにあったみたいに動けなくて。先生も同じように固まっていたように見えました。その後、勘違いじゃなければ、何か呪文みたいなもの唱えましたよね?そしたら先生の金縛りが解けて動けるようになった…」
「勘違いではないですよ」
「あれ、どんな魔法ですか?」
「魔法じゃないですよ。多分」
先生は苦笑して、「うまく伝わるか分かりませんが」と前置きして教えてくれた。先生はあの時「唵(オーム)」と発声したのだ。オームは古代ヒンドゥー教で神聖視されている呪文である。聖典であるヴェータを詠む時に用いられるサンスクリット語の感嘆詞で、キリスト教の「アーメン」に相当する。ヴェーダ全体を象徴するようになり、各書の冒頭にとなえられて聖音とされるようになった。オームは、A、U、M、という三音に分解されて天地空など森羅万象がオームの一音に象徴されるようになった。オームという発声は、喉・口腔・唇など人間の発声器全体を用いて、音声に何一つ障害を与えることなく「オー」と発せられ、最後に口を閉じて沈黙(ム)に至ることからも、神聖なエネルギーの象徴的なかたちとみなされる。
「私は宗教学者でも言語学者でもないので、詳細な原理は分からないのですが、まあ体内に神聖なエネルギーを作り出すサンスクリット語の聖音というイメージです」
サンスクリット。インドの言語だろうか。先生、それ限りなく魔法だと思うんですけど。
「私、今は日本の神話とか伝承とかを専門にしてますけど、大学の時は東洋の哲学を勉強してたんですよ」
答えになっているような、いないような。
「インドの方の聖音で、日本の神様の圧をはねのけることができるんですか?」
「はねのけるって。バトル漫画みたいな言い方ですね」
先生は笑った。ちなみにその後、俺の下腹部を強く押したのは、丹田と呼ばれる場所にエネルギーを送り込むためだったらしい。本当にこの人何者なんだろうか。最近俺んまわりには桃とかツクヨミとか人知を超えた存在がたくさんいる出て来しまったため目立たないが、この人も俺の中では常識を超えている。
もっと聞きたかったが、さすがに寝ようということになった。
「ツクヨミ、おぼろげでしたけど、やっぱり美青年でしたよね。でもあれ多分仮の姿ですよね。俺の勝手な想像ですけれど、ツクヨミはいかようにも姿をとることができて、あのような姿だったのは若い美青年というのが多くの人が想像している姿だからではないでしょうか?ほら、先生言っていたじゃないですか、ファンタジーものでは美青年として描かれることが多いって。でもその気になれば、あの闇の下からはどんな姿が出てきても不思議じゃなかった気がするんです」
「私もそう思います。人間はイメージ通りのものの方が、そうでないものより見つけやすく受け入れやすいですからね。私たちに対するサービスでしょう。まあ他の神様を見たことがないので何とも言えませんけれども」
「いかにも少女漫画に出てきそうですよね。光さんも流奈さんもあれが夢に出てきたら喜びそう」
「でしょうね、普通の女性なら」
「明日感想を聞くのが楽しみです」
先生は控えめに笑ってくれた。
*
翌朝。先生と俺は四時過ぎに起床した。桃はすでに起きていた。一時間くらいかけて内宮についた。外宮から内宮までは歩きだと遠いのだ。旅館を出た頃には真っ暗だったが、つく頃には少し明るくなってきていた。驚いたことに午前五時でもすでに参拝は可能だった。宇治橋のそばにある衛氏見張所はすでにあいていた。
宇治橋の手前には鳥居がある。宇治橋鳥居というらしい。立派な鳥居だ。俺たちは鳥居をくぐって橋を渡った。渡って周囲を見渡すとまだ何も見えない。使者は来ていないようだ。時刻は五時二十分。それからさらに二十分ほど待った。ふと右手を見ると、いつからいたのか宮域内の森の手前に鶏が見えた。先生は頷いた。
「あれでしょう」
俺たちが近づくと鶏はついてこいというように、木々の中に入っていった。俺たちは一瞬とまどったが、後を追って森の中に入った。すぐに木々は開け、川辺に出た。宇治橋の下を流れている川だ。鶏は逃げなかった。俺は両の掌を合わせ、水をすくうつもりで川の中に手を入れた。すくいあげようとすると掌に固い感触があった。手元を見たが、川の水以外は何も見えない。思い切ってそのまま水をすくいあげるように持ち上げた。すると水と全く同じ色をした鏡が手のひらの上にあった。両の手のひらより大きな美しい鏡だった。縁はついていない。俺がその大きな鏡を手にするのを確認すると鶏は木々の中に消えていった。後を追おうとすると、
「追わないでおきましょう。あれもおそらく神の眷属。去る時も人目に触れずに姿を消したいでしょう」
と先生に止められた。時刻は六時少し前。俺は神器を無事手に入れてホッとして、急に眠くなってきた。運よく内宮の入り口手前でタクシーをつかまえることができた。
「少し寝ましょう」
先生も結構眠そうだった。桃さえも眠そうだった。
スケジュール通り十一時半に、一行は内宮の宇治橋鳥居に集合した。もちろん俺たちが数時間前にすでに一度ここに来ているなんて九鬼家は知らない。
旅館に着いたのが六時半。そのまま布団に倒れ伏して、次に目が覚めたのは九時半だった。桃はすでに人間の姿で、俺が寝ている隣に座っていた。チェックアウトは十時半だったか、宿主さんは、
「いいですよ、いいですよ、少しくらい遅れても。朝食を食べていってください」
と優しい。至れり尽くせりだ。江戸時代の、参拝客を歓待する伊勢参りの文化は生きている。しかし、それならば、と朝食をたらふく食べるべきではなかった。腹がいっぱいになると、猛烈な睡魔がまた襲ってきた。今思うと、食べる量をセーブしていた先生はそれを見越していたのだろう。欲望に負けた自分がまたしても恥ずかしい。そんなわけで、内宮見学が始まった時、俺は眠たくて仕方がなかった。伊勢神宮のメインは内宮なのだが、俺のテンションは昨日の外宮の時よりはるかに低いので、先生の解説もところどころうわの空だった。
もうすでに何回も名前が出てきたが、御祭神の天照大御神(アマテラス)は、太陽の神様にして、天皇の祖先であり日本人の総氏神である。最近まで知らなかったが、日本神話の中で最も有名な神様らしい。伝説によれば、最初は皇居(当時の天皇がおわすところは東京ではない)に祀られていたが、約二千年前、祟仁天皇の時代、皇女の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が新たにお祭りする地を求めて各地を巡り、最終的にここ五十鈴川のほとりがアマテラスのお気に召したそうである。ちなみにこの倭姫命だが、神意を知る能力をもっていたことなどから、卑弥呼と同一人物という説もあるそうである。
宇治橋の下を流れる川、つまり鶏から鏡を授けられた川が五十鈴川である。現在では参拝の前のお清めは、手水舎で行うが、昔は川で身を清めていたらしい。まずは外宮と同じようにご正宮から参拝した。やはり神を祀るご正殿、お神宝を納める東西の宝殿は垣に囲まれており、一般人は門前での参拝となる。
内宮には「ご神体」として「三種の神器」の一つである八咫鏡(ヤタノカガミ)が祀られている。ご神体とは、神の依り所(神霊が憑依する所)のことである。神話によれば内宮の御祭神アマテラスが「この鏡を私だと思って祀りなさい」と伝えたとか。
ご正宮を参拝した後は、同じ宮域にある別宮三つを参拝した。別宮を参拝する頃には俺もだいぶ元気を取り戻していた。外宮でも思っていたことだが、境内には森が多い。先生によると森には神が集まっていると昔の人は考えていたらしく、神社は本来、本殿や拝殿を森で囲む形に作られていたという。かつては森そのものを参拝し、本殿や拝殿などが存在しない神社すらあったようだ。
内宮の宮域は外宮よりはるかに広く参拝に時間がかかったが、それでもゆっくり見ても二時間あれば十分だ。内宮を見物し終わると、時刻は午後一時を少し回っていた。昨日同様、九鬼家の人々は先生の解説を興味深く聞いていた。見学中、九鬼氏が俺に対して、ぎこちないながらもマイルドに接してくれたのが嬉しかった。俺は昨日、怒りを我慢しておいて本当に良かったと思った。ただ逆に、流奈さんに関しては、そのしぐさや先生に対する厳しい視線から、昨日よりも棘が感じられた。
今日は空は曇っている。雨の心配はあったが、この後は昨日決めた通り、九鬼夫妻と我々とで別行動をとる。九鬼家も俺たちも荷物を旅館に預けてあるので、それを取りに戻る時間を考慮して、近鉄伊勢市駅に四時半集合ということになった。
「それじゃあ先生、よろしくお願いします」
九鬼氏が頭を下げた。
「とりあえずお昼でも食べましょうか」
みんな賛成だった。俺は朝が遅かった上、大量に食べたから、それほど腹は減っていなかったが、輪を乱してはいけない。
「何食べましょうか?」
俺の問いかけは九鬼姉妹に向けたものだ。俺は改めて二人をみた。背丈は二人とも同じくらいで、俺より10センチくらい低い一六〇センチ前後だろう。しかし印象は対照的だ。黒髪に薄めの化粧、そしてアクセサリーを一切つけていない光さん。かたや、金髪にメッシュ、派手な化粧に、左耳に三つピアスをつけている流奈さん。俺は見た目で人を判断するのには反対である。しかし、避難を覚悟であえて言うと、俺の好みは10 : 0で光さんである。決定的なのは、流奈さんの化粧が俺からみても、あまり上手とは思えないことだ。
公平を期すために言っておく。男性陣三人の中では、ビジュアル的には俺が明らかに劣っている。しいて強みを言えば先生より十歳くらい若いところか。
「なんでもいいですよ」
俺の余計な思索を遮るように光さんが言った。うーん、なんでもいいが一番困るんだけど。流奈さんは無反応だけど、一応聞いてみる。
「流奈さんは?何か希望ある?」
「なんでもいいです」
ぶっきらぼうだが、返事してくれただけでもよしとしよう。とはいえ、これでは決まらない。桃の方をみる。そう言えばこいつの好物ってなんだろう。やっぱり肉か?
「もしうどんがお嫌いじゃなければ、せっかくですから伊勢うどんにしませんか?」
先生の一声で決定した。
おはらい町を歩いていると、途中の土産物屋で中国人らしき観光客が、がレジで店員とうまく意思疎通できなくて困っている場面に遭遇した。先生が「ちょっと待っててください」言って、間に入り仲介すると問題はすぐに解決したようだった。先生が中国語らしき言葉を話しているのがここからでも見えた。
「お客さん側が金額交渉しようとしていたようでした。中国だとこういった土産物屋では、観光客は値下げ交渉するのが普通なので。文化の違いですね」
「中国語もできるんですね。英語だけじゃなく」
光さんは感動していたが、俺はもう驚かなかった。昨日のサンスクリット語の聖音に比べたら、はるかに理解の範疇である。
伊勢うどんは徹底的に茹でるため、コシがまったくない、極太うどんである。その麺の上に見るからに濃厚そうな真っ黒なタレをかける。東京では讃岐うどんがすっかり定着しつつあるが、コシが強くさっぱりした味付けの讃岐うどんとは対照的だ。
九鬼姉妹が食べ終わる頃、先生は俺の方を向いて目配せをした。話を切り出そうというのだろう。やっぱり緊張する。
「ところで」
先生はあくまで平静だ。
「昨夜とても奇妙なことがありました」
いきなりストレートに本題に切り込む。
「どんなことですか?」
聞いたのは光さんだ。
「三人とも同じ夢をみたんですよ。まったく同じ夢を」
うまいもって生き方だ。
「どういう夢だったんですか?」
俺は姉妹の表情を観察する。光さんは続きを熱心に聞きたそうな顔をしているが、自分から何かを言うつもりはなさそうだ。流奈さんは相変わらず無表情で、何も読み取れない。
「平安時代の貴族のような服装をした美青年が出てきました。驚いたことにこれが神様なんですよ」
「ホントですかっ?」
光さんは驚いた表情をしている。しかし流奈さんは表情は変わらない。
とりあえず俺が光さんに振ってみる。
「もしかして…」
「はい。私も同じ夢を。しかも随分リアルな夢で。ただ恥ずかしくて誰にも言えなくて」
やった!しかし
「流奈さんは?」
という先生の問いかけに、流奈さんは
「私は何も」
という反応だった。
おかしい。ツクヨミは家族全員に夢を見せるといった。間違えたのか?しかし、今はここでそれを確認しなくていい。光さんは見ていたのだ。
俺は夢の内容を確認した。間違いなかった。平安貴族のような身なりをしたツクヨミが現れ、「お前は近く知り合いから鏡を受け取るだろう、それを所有し、その者とともに出雲に行き、オオクニヌシの荒ぶる魂を鎮めるのだ」と告げられた。
安堵した。自分の呪いを解く、そしてオオクニヌシの荒ぶる魂を鎮めるというゴールに確実に近づいている。
俺たちは店を出て、五十鈴川に通じる古風で情緒ある路地を歩いていた。思ったより人通りが少ない。歩きながら、俺はリュックに入れておいた水と見紛うばかりの鏡を光さんに渡した。光さんはもとより、この時は流奈さんも驚いたようだった。
「さっきの話。夢だけど、本当のことなんだ。実は俺たち、夢じゃなくて実際に会ったんだ」
「旅館で、ですか?」
俺は何をどこまで言うべきか迷っていると、
「水木くん、光さんたちを信用しましょう。初めからそのつもりだったはず」
と先生は言って、姉妹をかわるがわる見た。
「僕たちは、ツクヨミに会いにいきました」
先生は俺の方を向いて説明するよう促した。俺は覚悟を決めた。桃の方をちらっと見た。緊張が伝わる。大丈夫だ、桃のことだけは話さずに伝えることができる。俺を信じてくれ。心の中でそう呼びかけた。
ある信頼できる専門家に呪いが憑いていると言われた。気になったので、先生に相談したものの、原因は分からずしばらく放置状態だった。そんな折、今回の伊勢旅行に誘われた。先生と俺は、もしかしたら昨年行った伊勢か出雲で呪いをもらったんじゃないかと思っていたので、伊勢には何かヒントがあるかも、くらいの気持ちできた。そして神路通の伝説を聞き、深く考えずに行ってみた。そこから先は昨日の出来事をそのまま話した。
我ながらなかなかうまいストーリーだと思ったが、流奈さんはまた無表情である。ダメか、やっぱり桃の存在抜きに語るのは苦しいものがあったか。でも光さんは戸惑いながらもとりあえずは信じてくれたようだ。流奈さんはヘッドホンをして少し距離を置いてあるいている。あんまり聞く気はないようである。
「分かりました。あんな夢を見ちゃった上に実際に鏡があるんですから。信じます。それにそんな嘘ついてもしょうがないですよね。私、できることなら協力します」
ふう。これでほぼ大丈夫だ。一応流奈さんにも聞いてみる。
「流奈ちゃんは?やっぱり信じられないかな」
無理だろうと思っていたのが、ヘッドホンを外して、
「はい。信じます」
と言われたので意外だった。逆にあっさりしすぎてて、俺が戸惑ったが、信じると言われた以上、何も弁明することはない。
「さ、それじゃあ、せっかくだからおはらい町を楽しみましょう」
先生の一言でひとまずその話は終わりになった。そうだ、あとは東京に帰ってからでいい。俺は緊張から解放されて、心からみんなとこの風情ある町の観光を楽しみたかった。でも好奇心を抑えきれず光さんに聞かずにはいられなかった。
「光ちゃんの夢に出てきたツクヨミ様、美青年だった?」
「はい、とっても!」
目がキラキラ輝いている。
*
「おはらい横丁、もうちょっと見学したかったですね」
「しょうがないですよ。せっかくの旅行で風邪でも引いたら悲しいですからね」
時刻は六時、俺と桃と先生は、名古屋行きの近鉄に乗っていた。窓からみえる景色はすでに暗く、雨足はだいぶ激しくなってきている。もともと九月の中下旬は台風がよく来る季節なので、旅程のほとんどで晴れていたのは、運が良かったと言えるだろう。名古屋で、俺と桃は東京行き、先生は反対方面の新幹線に乗るから、そこでお別れだ。九鬼家はもう少し後の、近鉄特急に乗ることになっている。
「これで7日間何事もなければ、水木くんの呪いはいつでも解けるようになりますね」
今気がついたが、いつの間にか先生が俺を呼ぶときの呼称が「さん」から「くん」になっていた。
「しかし結局呪いってどんな呪いだったんですかね?まだ効果が発揮されていないから、分からずじまいで終わりそうです。それもツクヨミに聞いておけば良かったな」
「その方がずっといいじゃないですか。病気だって未然に防げるならその方が良いでしょう」
「そうだぞ、どんな目に合うか分からないんだ」
桃が真剣な表情で言った。
「分かってるよ。ただ、ちょっと嬉しくて調子に乗ってみたんだ。でも本当に安心したよ」
「そうか。良かったな」
すぐに嬉しそうな表情に変わった。心なしか、桃は最初に会った時より俺に優しくなっている気がする。犬って飼い主以外に友情が芽生えるものなのだろうか?ネットで四国犬の特徴調べた時、「主人には異常なまでに忠実だが、よそ者には警戒するため、番犬に適する」みたいなこと書いてなかったっけ?
俺の方は、人間じゃ考えられないくらい裏表のないこいつが今じゃ大好きだ。俺のために悩んだり、喜んだりするその表情には打算が感じられない。ちなみに、こいつは今夜中に俺が光ちゃんに引き渡すことになっている。
「多少遅くなっても大丈夫ですよ。私はまだ大学休みですから。近くまで来たら私のスマホに連絡ください」
先生の目的通り、光ちゃんと大いに親交を深めることができた。でも俺が今思い出しているのは、流奈ちゃんのことだった。
俺は努めて流奈ちゃんと話をするようにした。正直気後れしていたが、先生の「あの年頃の子は少し年上のお兄ちゃんには心を開きやすいのでは」という言葉に乗っかってみることにした。桃にも先生にも俺のために随分骨を折ってもらったのだ。ギブしてもらった以上、こっちも返さないといけない。少なくともその努力はしないといけない。
「流奈ちゃん、高校三年生でしょ。受験は?」
「一応する予定です。進学校だし。お姉ちゃんみたいに優秀じゃないけど。水木さんも桃城さんもすごいですよね。私立のトップじゃないですか。私には無理です」
「それはやって見ないと分からないよ」
流奈ちゃんは反応しなかった。俺もありきたりでつまらないことを言ったと思った。他の三人とはだいぶ距離があったので思い切って話題を変えてみる。
「流奈ちゃん、先生のことあんまり好きじゃない?」
「え、どうしてですか?」
その反応で、俺は自分の勘が的外れでもないと感じた。
「なんとなく。今日最初に集合した時から、たまに睨んでたりしてるように見えたから」
返事はない。
「昨日はそんなことなかったのに、何かあったのかなと思って」
やや間があって
「あの人いい人だと思います。親切ですし。でもなんていうか両親に取り入っているように見えて。わざわざ母の好きなお茶や父の好きな俳句やお酒の話で盛り上がって。実際旅館に帰ってから両親がすごく褒めていたんです。若いのに良くできた人物だって。私、誰にでも愛想がすごくいい人ってちょっと苦手で」
その感じ、分かる。人によって態度を変えたり、打算で動いたり、そういうことはできなし、人がしているのを見るのも大嫌いだった。今は、良好な人間関係を維持したり、仕事をするために必要なことだと理解はしている。でも、俺はこの子はまだそんなことは理解しなくていいんじゃないかと思うのだ。一方で、先生が戦略的に動いてくれるおかげで物事が上手く運んでいるのは否めないので、あまり悪くも言う気にもなれず、
「ただ、結果的にみんなが得をするように意識して行動してくれているから。利己的じゃないっていうか。もし自分の利益だけを追求して、誰かを損させるんだったら、やっぱり嫌な気分になるよ」
と述べるだけに留めておいた。
「俺、まわりに信用できる大人、あんまりいないんだ。まあ家族とかは除くけど。先生とは会って数ヶ月だけど、今のところ、信用できる人だと思っている。あと考え方とか行動とか見習う部分もたくさんあるし」
これは本心だ。
「そうかあ、私は家族も含めて信用できる人ほとんどいないなあ」
ほとんど、ということは一人、二人はいるんだろうか。
「ご両親は?」
黙ってしまった。今のは聞かなきゃ良かったかも知れない。別のことを聞こう。
「将来やりたいことある?」
「ないです。というか分からないです」
「そうだよねえ、俺もそうだった」
またしてもつまらないことを言った。俺の高校時代を話してどうする。
「俺は今回の伊勢旅行がすごく楽しい。流奈ちゃんは?」
「…楽しいです」
「俺、日本人なのに、日本のこと何も知らなくて。でも自分の国の文化を知るってとても面白いと思った。もっと知りたくならない?」
ならないか…
「なります」
なんだか無理やり言わせている気がするが、俺は続ける。
「とにかく何か少しでも興味があることが見つかったなら、それを学ぶために進学すればいいんじゃないかってこと。俺と違って、これから学ぶチャンスあるんだから」
俺は無理やり話をまとめた。これで一応話は終わりだと思った。ところがそうはならなかった。俺が前を向いて、みんなの方を見た時、
「行きます、大学」
という流奈ちゃんの声が聞こえた。
「え?」
「だって…」
なんだろう。気のせいか流奈ちゃんの声が震えている。
「そうしないと桃がおじいちゃんに顔向けできないんでしょ?」
ポツンポツンと雨が降って来た。俺はバックパックから折り畳み傘を出して、流奈ちゃんと一緒に入る。
流奈ちゃんは、昨夜十一時半頃、部屋を抜け出したらしい。両親も光ちゃんも疲れていたのか十時半くらいにはベッドに入り、すぐに寝てしまったらしい。流奈ちゃんだけが、いつもの習慣でまだ寝付けなかった。
「さすがに知らない街で、夜一人で出かけようとは思っていなかったんですけど…でも窓から見えた月がとても綺麗だったので我慢ができず」
学校の修学旅行だったら、絶対に認められない言い訳だがこれは修学旅行ではないし、「月が綺麗だから」は動機としては正しいと思うのだ。でもやっぱり、どんな理由であろうとその時間に一人で出歩くのはヤバい。桃の心配がやっと分かってきた。
「私、好きなアーティストがいて、いっつも聴いてるんです。それで乗り切れる日もあるくらい好きで。その人の曲の中に月の光をテーマにした歌があって、すごく綺麗なメロディーと歌詞で。綺麗な月の下で聴きたかったんです」
目を輝かせている。この子のこんな表情が見られるとは思わなかった。なんだコレ、すっごい普通の会話だ。
「パンク?」
「違います」
一気に視線が冷たくなった。しまったと思って何とか機嫌を直してもらい、先を促す。彼女の好きなアーティストは女性のシンガーソングライターで、俺も知ってはいるが、残念ながら曲はほとんど知らない。しかしどちらかと言うと「かわいい」とか「さわやか」と言った形容詞がつきそうな歌手だったので、流奈ちゃん自身のイメージからは程遠い。
「えーと。それでホテルを抜け出したんだな。みんなが寝ている間に」
彼女は頷いて、その後の行動を話してくれた。月、からの連想で、昼間行った神路通に行ってみようと思ったらしい。スマホで場所を検索すれば、迷うことはなかった。そして行って見たら、先生が本を取りに一旦宿に戻るところで、それから俺と桃が二人で月見していた、というわけだ。
「時間も遅かったので、さすがに少し怖くなってきたので声をかけようとしたんですけど」
自分のことを話しているのが聞こえてしまったのだ。しかし桃はなんで気がつかなったんだ?匂いで分かりそうなものだ…そうだ、あいつあの時だけ軽く酩酊していた。
どんな会話だったっけ?頑張って思い出してみる。えーと、俺と桃が二人ってことは先生がいったん本を取りに戻っている間だ。流奈ちゃんの記憶を頼りに場面を思い出す。
「悪いな、お前が旅行に来た目的は流奈さんのお守りだったのに」
「気にするな。思ったより大丈夫そうだった。それどころか東京にいる時よりも、こころなしか生命力が回復しているように見えた。これも伊勢という場所の力かも知れない」
「良かった。俺も正直、どんなにヤバい子かと思っていたんだけど、少なくとも危なっかしいところは全然感じられなかったよ。桃は何をそんなに心配していたんだ?」
「たとえば、夜眠れないことが多いらしく、みんなが寝静まった後、深夜に出かけてしまうんだ。特に目的があるわけじゃないが、夜だと心が落ち着くみたいだ。反対に日中はほとんど何もやる気がおきないらしい」
「桃は流奈さんにどうなって欲しいんだ?ちゃんと卒業できればそれでいいのか?それとも大学に言ってもらいたいのか?」
「分からない。けど、元気になってもらえればそれでいい。でもそうだな、ちゃんと卒業して、進路は決まって欲しい。先行きが見えないのは不安だ」
「親みたいなこと言うね。一応向こうが飼い主なのに」
「元の飼い主がそう言っていたらかな」
「最後まで心配してたんだ、流奈のこと。このまま何もできなかったら、俺は主人に顔向けできない」
そうだった。俺は桃の誠実さに感激したんだ。それにしても側からみたらコントではないか。「さすがにここでは夜出歩かないだろう」とか言っているすぐそばに張本人がいたんだから。
「流奈ちゃん、いつまでそこにいたの?」
彼女の金縛りが解けて動けるようになったのは、呪いを解く具体的な方法の説明をするくだりあたりらしい。徐々に身体が動くようになったが、会話に割り込むことも怖くてできず、急いでホテルに戻ったらしい。でも、緊張と興奮で一睡もできなかったらしい。夢を見なかったことも、俺たちの話を全部信じると言ったことも、これで全部腑に落ちた
「一応聞くけど、何が行われてたか分かった?」
「途中までは全然。水木さんと桃さんは酔っ払って幻覚でも見ているのかと思いました。でも最初は神様のことが見えていなかった寶井先生も、途中から見えていましたよね?」
俺は頷いた。
「同じタイミングで私も」
なんてことだ。
「怖くなかったの!?」
「ものすごく怖かった…でも姿が見えた途端、金縛りにあったみたいに動けなくて」
思い出したのだろう。泣きそうな顔をしている。
「なんで先生や水木さんは動けるようになったの?私声も出せなかった」
「先生が解いてくれたんだよ」
今は他に説明しようがない。
ツクヨミはあの時言った。「この状態でも私の姿が見えるとは。お前たち並の人間ではないな。常ならば、闇を完全に払いきり、明瞭な形を作らなければ、人間に気づかれることはないのだが」それは先生と俺に向けた言葉だと思っていたけれど、そうではなく先生と流奈ちゃんに向けた言葉立ったのかも知れない。今となっては確認しようもないが。それにしても、流奈ちゃんは先生並みに霊感があるってことか。
いずれにしろ、動くことも声を出すこともできず、その場にいたわけか。さぞ怖かっただろう。俺にはどうしようもなかったと思いつつ、
「ごめんな、俺たち自分のことで頭がいっぱいで何もしてあげられなかった」
流奈ちゃんは泣きそうな顔をしたまま、首をぶんぶん横に振っている。雨がだんだん強くなってくる。前を見ると、先生たちは「おかげ横丁」に入るところだった。おかげ横丁とは伊勢が最も賑わった江戸末期から明治初期をテーマに伊勢路の代表的な建築物を再現した横丁だ。
「今日、みなさんがあまりにも普通に振舞っていたから、本当は夢だったんじゃないかと思っていたんです。でもさっき話してくれて、やっぱり現実だったんだって思って…でも私が見ていたことに誰も気づいていなかったので言い出せませんでした。お姉ちゃんには言おうと思ったんですけど心配されそうで」
それはそうだろう。そして流奈ちゃんは小さな声で言った。
「もう当分、深夜の散歩はいいです」
「うん、そうしな。桃も心配するからさ」
「やっぱり、桃城さんは桃太郎なんですね」
「見られちゃったんなら、隠しようがない」
ごめんな桃。
「でもお願いだ。これは誰にも言わないでくれ。お姉さんにもだ」
「はい。言ったら桃が悲しみますよね」
俺は頷いた。それから
「流奈ちゃん、桃のこと好きか?」
「好きです。好きだったんですけど、好きだったことずっと忘れていました。おじいちゃんのことも大好きだったんです。どうして忘れてたんだろう。おじいちゃんは私のことずっと心配してくれていたのに、結局ろくにお見舞いも行かないで」
今度は泣いていた。
「だから、学校好きじゃないけれどちゃんと行って卒業して、進学もします」
その声は力強く、目には光が宿っている。
「さっきの曲」
「え?」
「月の光をテーマにした曲。もし今スマホで聴けるなら聴かせてくれない?」
俺も十代の頃、好きなアーティストの好きな曲のおかげで頑張れたことがあった。
流奈ちゃんがヘッドフォンを貸してくれた。一度傘を流奈ちゃんに預けて、ヘッドフォンをつける。雨音が遠のいて、スマホから女性が歌声が流れてきた。
♪
眠る街で 風のようなあなたと出会って
厚い雲が消えて 一瞬で星が輝き出したの
ひとりじゃ退屈な夜に 溺れてしまいそうで
蒼く包みこむ 石畳の上で あなたと踊りたい
月の光 胸の痛み
ねぇもう一度抱きしめてほしいよ
ふたりだけの世界へ行こう
私の心どこか連れていって
朝が来る前に
♪
*
「流奈ちゃんとだいぶ仲良くなれたんじゃないですか?光さんも妹が久しぶりに楽しそうにしていると喜んでいましたよ」
本当か?あんまり笑ってはいなかったけど。でも話せて良かったことは確かである。本音は「光ちゃんと二人で話す機会が欲しかった」だけど、この場で口にすることは憚られた。
流奈ちゃんと二人で話した後、雨が強くなってきたので観光を中断し、甘味処に入った。一時間半くらい休憩し、九鬼夫妻との集合場所の近鉄伊勢市駅に向かったのである。
「水木、ありがとう」
桃に屈託のない笑顔でお礼を言われた。嬉しさ半分、後ろめたさ半分である。
「水木くん、私は光さんには本当のことを話してもいいとずっと思っていたんです。だからツクヨミに会えなかったとしても、どこかでそれとなく話していたかも知れません」
「普通、信じませんよ」
「そうかも知れない。でも私の方が彼女を信じてみてかった。本当に深いところで人間関係を築くには、お互い信頼できないといけない。でも相手が信頼してくれるのを待っていてはそれはできない。まずは自分が相手を信頼しないと」
「はあ」
「ちょっとくどかったですね。何が言いたいかというと、水木くんはあまり人を信用しないところがあるなと思って。なんとなく流奈さんに似ている気がしたんですよ」
隣を見た。桃が窓の外を見ている、初めて会った時、俺はこいつの言うことをまったく信じる気になれなかった。ごめんな、お前は一生懸命俺に伝えようとしてくれたのに。その横顔を見ながら思った。もしかしてこいつは、流奈ちゃんが自分の正体を知ってしまったことに、気づいているんじゃないか。
「いやあ、なんだか説教くさいこと言ってしまいました。年取るとダメですねえ」
先生は笑った。
先生とは名古屋駅で分かれた。先生も大きな仕事をやり遂げた後みたいに、満足そうだっ
た。
「もう後は大丈夫そうですね。一応、出雲に行く日程決まったら教えてください」
俺と桃は東京行きの新幹線「のぞみ」に乗った。十時前には品川駅に着くだろう。九鬼家は小田急線代々木上原駅にあるので、光ちゃんと駅で十一時半に待ち合わせることになっていた。引き渡しが完了したら、俺の伊勢詣では終了だ。
江戸時代、伊勢網では珍しい品々や生活の役に立つ品々、それに未知の知識を吸収する機会でもあった。俺はその全てを満たして、満足感と一抹の寂しさとともに、東京に戻っていった。
伊勢の後日談。
俺は家族や会社の関係者たちとは別に、高杉くんにお土産を買ってきた。伊勢神宮オリジナルの勾玉型のお守りである。内宮にしか置いていないユニークなデザインで、結構気に入っている。ゴールデンウィークに珍しい玄武のお守りを買ってきてくれたのだ。お返しをせねばなるまい。もちろん日頃の感謝も込めてだ。ランチタイムに渡すと高杉くんはありがたく受け取ってくれたが、なぜかニヤニヤしている。
「伊勢行ってたんだね」
そうだけど、それがどうかしたのか。ますますニヤニヤしている。
「あの可愛いい彼女と?」
いや、彼女いないけど。
「またまた。連休前の金曜日、渋谷のカフェにいたじゃない」
光ちゃんのことである。見られていたらしい。顔が赤くなるのが分かる。いや、彼女じゃなくて知り合いの女の子。
「ただの知り合いが犬連れてデートなんかしないでしょ?一緒に買ってるの?」
完全に誤解である。「いや、違くて」と言っても「またまた」と返される。埒があかない。けれど誤解されても悪い気は全くしなかった
「そういや、そっちこそどうだったんだよ。彼女のご両親に挨拶に行ったんだろ」
「それがさあ」
思った以上にしんどかったようである。相手のご両親が保守的な人で、実家のお寺の経営は大丈夫なのか、とか聞かれてタジタジだった。
「そりゃ大変だ」
大いに同情した。でもせっかくだから前から思っていたことを聞いてみた。
「神社とかお寺ってさ、やっぱりビジネスなの?出雲や伊勢みたいに大きいところもそうじゃないところも」
曰く、もちろん普通の株式会社とは違うが、この時代なんの努力も工夫もしないで安定した生活が送っていける保証はないらしい。だからオリジナリティを出すためにお守りのデザインを工夫したりもするなんて序の口で、写経体験や座禅体験といったイベント行ったり、元手があるところは飲食ビジネスや宿坊を営むところもある。飲食ビジネスとはなかなか驚きである。
「でも、昔からやるところは色々やっていたよ。お酒つくって売ってたりとか。あんまりオープンではなかったみたいだけど」
なるほど。勉強になる。やっぱり何の手も入れずに、人が自然と来てお金を落としてくれる、なんていうところはないのかも知れないな。
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