花に嵐

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花に嵐

一月 年が明けて、新年ムードも薄れはじめた一月の下旬、会社からの帰り道、明治神宮の近くで桃は待っていた。よくこの寒さで外で待っていられるもんだ。桃との再会は十月、俺を家まで運んでくれた時以来である。 「肝心な時に、役に立てなくてすまなかった」 出雲でのことを流奈ちゃんから聞いたのだろう。 「流奈を守ってくれてありがとう」 いや、どう見ても守ってもらったのは俺の方なんだけど。流奈ちゃんは少し事実を変えて伝えてくれたのだろうか。俺は返事を濁した。ただあの不気味な蛇については知りたかった。 「ミヅチではないか」 ミヅチというのは、蛇の姿をとった水の精らしい。 「その水の精が、なんで俺を襲うんだ?」 「出雲の国津神の呪いがかかっていたこととか、神器を持っていたことが関係していると思うんだが、俺も詳しくないんだ」 申し訳なさそうにしている桃をみて、慌てて「いや全然申し訳なくない」とフォローに回った。ただ念のため、蛇みたいな腕の痣はみてもらい、「何も嫌なものは感じない」とのことだったので安心した。そして改めて、もう呪いにかかっていないと教えてもらった。 「うまく言えないが、呪いが解けただけでなく、憑き物が落ちたみたいな感じだ」 「厄払いのおかげかな」 俺は年明けに、藤原氏の神社で厄払いをしてもらった。お祓いは藤原氏自らがやってくれた。俺以外にも厄除けの祈祷を受ける人は大勢いたので、無料の申し出は辞退して、普通に料金を納めて受けた。これまで祈祷を受けたことはなかったが、心身ともにさっぱりした。気休めかも知れないが、病は気から。気分って大事だ。俺は意外とプラシーボ効果を受けやすい体質かも知れない。新年というのも気持ちが切り替わる良いタイミングだ。 「まあ今年は後厄なんだけど。なんで本厄だった去年受けなかったんだって話だよな」 「それでもやらないよりはいいんじゃないか?」 日頃、無邪気に毒ばかり吐かれているのに慣れたせいか、今日の桃はなんだか優しい感じがする。 「水木、少し散歩しないか」 時刻は午後九時。真冬の夜の散歩は冷えるので、コンビニでホッカイロを買ってきた。天気予報だと今夜から明日朝にかけて雪が降るとか。 代々木公園の外周を歩きながら。九鬼姉妹の近況を聞いた俺は出雲から戻った数日後に流奈ちゃんと電話で話して以来、姉妹のどちらとも連絡はとっていない。光ちゃんは、無事卒論を提出して、大学院受験に備えているらしい。ということは内定をもらっていた大手メーカーには就職しないってことか。大学院って研究計画作ったりとかしなくちゃいけないんじゃなかったっけ?結構大変なはずだ。しかも安定している就職先を蹴って。強い意志がないとできない選択だ。秋に会った時の様子からしたら予想外だったが、しっかり頑張っているってことだ。うっかり見くびってしまっていた。流奈ちゃんはつい最近試験を受けて現在結果待ちらしい。どんなところをどんな方式で受けたのかは、桃には分からなかった。上手くいくといいな、と心から思った。ちなみに寶井先生とは、いつか出雲に行く前にバーで飲んで以来、連絡をとっていない。SNSでつながってもいないので、今どこでどうしているかも分からない。桃も知らないようだった。 去年の晩春から始まった非日常な日々は収束に向かっているようだ。大変なこともあったので、九鬼姉妹や寶井先生。普通に会社に行っているだけだったら絶対会わなかった人たち。生活が完全に日常に戻ってしまったら、もしかしたらもう会うことはないのではないか。そんな気すらする。 「なあ、なんかまたみんなでワクワクすることしたいな」 喉元過ぎれば暑さを忘れるとは言うけれど、こいつといる時は思ったことを口にしていい気がした。咎められるんじゃないか、と思ったが桃はスルーした。 「俺がいる間に水木の呪いが解けて良かったよ」 桃の雰囲気が前と微妙に違うと感じたのはこの時だ。なんだかすごく穏やかだ。前からいいやつではあったが、少し刺々しかったり、子供じみているところがあった。今日は、包容力というか大人びた印象を受ける。 「俺がいる間って?お前どこかに行くのか?」 俺はかすかな不安がこみ上げてくるのを感じながら努めて明るく言った。 「俺はもうお前たちの前から消えなくちゃいけない」 「何言ってるんだ?消える?」 「流奈が立ち直ることができた。心残りがなくなった以上、もう行かなくちゃいけない」 「そんなわけないだろ、光ちゃんがお前を追い出す理由なんかないし、流奈ちゃんだってお前にいて欲しいと思うさ」 少し沈黙があった。 「ずっと不思議に思ってただろう、どうして俺が言葉を喋れたり、人間の姿になれたりするのか」 俺は頷く。 「それは俺には強い思念があったからだ。ある意味、怨念と同じような力の現れかも知れない。力の向き方が違うだけで。だから、思いが遂げられたら、こんな力は人の世にあってはいけない」 生き霊みたいなものだろうか。よく分からないけどそういうルールなんだろう。もう慣れた。けれど、桃と会ったり話したりできなくなるかと思うとつらい。 「分かったよ、しょうがないな。それも決まりだからどうしようもないんだろ。でも俺はお前がただの犬でも会いたいから、だから時々遊びに行ってもいいだろう?流奈ちゃんがお前を散歩させている時、会いに来てくれって行ったんだ。まだそれも実行していない」 桃は黙っている。気がつくと空から柔らかくて白いものが降ってきて、コートにつかの間積もる。沈黙が嫌だったので、話を続ける。 「何か土産持って行くよ。そう言えばお前の好物を聞いていなかったな?お前何が好きなんだ?」 「水木、今日はお別れの挨拶をしにきたんだ」 「お別れ?なんで?」 「俺は生きていないからだ」 「なに?」 何を言っているのか分からなかった。 「俺はとっくに死んでいるはずなんだ。けれど、飼い主の無念をなんとかして果たしてあげたい。その一心で願いが成就するまで、この世にとどまることができてるんだ。そしてそれが叶った今、もう行かないといけない」 言葉は耳に入ってくるけれど、理解が追いつかない。 「本当は黙って消えたかった。家が窮屈で、抜け出したことにでもしてもらいたかったんだ」 「ちょっと待てよ」 自分でも何を言おうとしているのか分からないが、何か喋らずにはいられない。 「その目的のためだけにこの世にいたというのか。じゃあ何で俺を助けてくれたんだ?流奈ちゃんはもしかしたら、お前がいなくても一人で立ち直れたかも知れない。だけどな、俺はお前がいなかったら絶対助からなかった、それくらいお前には恩があるんだ。あっさり消えたりしないでくれよ」 桃は喜んでいるような悲しんでいるような複雑な表情を浮かべている。 「決まりなんだ。未練がなくなったら、俺は行かなくてはいけない。そうしないとそれこそ怨霊になってしまうから。だから」 桃は寂しそうに笑った。暗闇にハラハラと舞う雪、そこに佇む背の高い美青年。絵みたいな光景だ。同性からみてもドキドキするくらい美しく幻想的な一枚の絵。 「俺がいる間に元気になってくれて、本当に良かったよ」 何か言わなくては。必死に言葉を探した。 「最初に聞いたこと覚えてる?何で俺を助けるのか?って。今でも教えてくれないのか?」 「それは…」 「やっぱり秘密か?」 「いや、別に隠す必要はなかった。ただ最初に会った時、あんたがあまりに俺を信用していなかったんで、こっちも少し意地になっていたんだ。すまん、こう見えて人見知りなんだ」 「じゃあ、今は教えてくれるか?」 桃は頷いた。 「お前、道端で亀を拾って飼っていただろう?もう二年くらい前になると思うが」 二年前。大学三年生の時だ。もちろん覚えている。俺の数少ない善行だ。大学三年生の冬だ。学校に行こうと家を出たら、道端で小さな丸い物体がノソノソ動いていた。小さな亀だった。道端にこのまま放置していたら、轢かれたり踏まれたりしてしまうんじゃないかと思って、家に持って帰った。ネットでぱぱっと必要なものを調べ、とりあえずバケツで即席の環境を整え、水槽を買いに行った。ちなみに学校はサボった。 自分なりに環境を整えて面倒を見ていたつもりだったけれども、亀は数日で死んでしまった。家の庭に穴を掘って埋葬した。公園から花を数輪ちぎってきて一緒に埋めた。 「俺はその亀の霊を二回みた。一回目は時期的にあんたが埋蔵してすぐ後だ。その時はまだ俺の主人は健在で、明治神宮周辺は俺の散歩コースだったんだ。たまたまその日散歩していたら、守護霊のようにお前のそばにいる亀の霊をみた。少しでもお前の力になりたくてこの世にとどまっているようだった」 二回目は? 「二回目はそれから三〜四ヶ月後くらいだ。春だった。亀の霊はまさに今の俺のように心残りがなくなったので、成仏するところだった。その頃俺は、主人が亡くなり今みたいになった直後でな。そんな俺を見てその亀の霊が言ったんだ。自分はある人間のおかげで怨霊にならずに済んだ。あなたがもうしばらくこの世にとどまるならば、その間だけでいいから、その人間を災難から守ってやってくれないか、と」 「ちょっと待った、その前に心残りがなくなったってどういうこと?その数ヶ月の間に何か俺が抱えている問題が解決したってことか?」 「そういうことになるな」 なにかあったか?大学三年生の冬から四年生の春にかけて。小鳥を埋蔵したのが十二月。その数ヶ月の間に何か良いことあったが?就活がつらかったことしか覚えていない。今思い出しても、吐きそうになる半年だった。結果的に奇跡に違い内定がもらえたから良かったが。ん?奇跡に近い内定… 「思い当たったか」 俺は何も言えながった。今の会社に入れたのは、本当に奇跡だったんだな。 「俺は本当に誰かに助けられてばかりだな。運が悪いなんて嘆いた自分が恥ずかしい」 「でも、その後呪いにかかってしまったのは事実だから、運が良くはないだろう。もし出雲に行った時に亀の霊がまだいたら、呪いなんてもらうことはなかっただろう。亀は霊力の高い神聖な生物なんだ。特に守りの力が強い。もしその霊がついていたら、きっとお前を呪いから守ってくれたはずだ。それに」 桃はそこで一度言葉をきる。 「今の会社で幸せそうにはあまり見えなかったぞ」 痛いところをつくな。 「しかしあんた亀は平気なのに、蛇は苦手なんだな。おかしなやつだ」 お。やっといつもの無邪気な毒が出てきたな。 「それじゃあお前はその時からずっと俺を見ていたのか?」 「そんなことはない。俺もいつもあの辺りにいたわけじゃないからな。行っても必ずあんたがいたわけじゃないし。今年の春、最初に声をかけた時は、最後にあんたを見てから半年くらい経っていたな」 最初に会ったのが五月だから、半年前というと去年の十一月頃か。確かに出雲に行く前だ。 「別に異常がなければ、ずっと声をかけないつもりだった。この世のものではない存在と関わり合いにさせたくなかったからな。ところが実際は知っての通りだ。最初は頭が固くて融通の利かない、おまけに暗いやつだと思っていたけれど」 ひどい言われようだけど、桃はこれくらいの調子の方が良い。 「あんたはやっぱりいい人だった。家族思いで、動物思いで、俺や流奈のことも気遣ってくれた。流奈が立ち直れたのはあんたのおかげだ」 褒められているのに、切なくなってくる。 「そんないい人に、とんでもない災難が降りかかったもんだな」 いいやつはなのはお前の方だ。だけど泣き声になりそうだったから言えなかった。雪の勢いは強くなってきて、俺たちに絶え間なく降り続く。 「なあ桃、伊勢、楽しかったな。お前も楽しかったか?」 桃は満面の笑みを浮かべた。こいつがこんな風に屈託なく笑うのを初めてみた気がする。笑って頷き、そして深く頭を下げて雪が舞う街中に消えていった。 三月 「ちょっと早いけど卒業おめでとう」 あまり格好つかないけどタピオカミルクティーで乾杯した。明日は光ちゃんの卒業式。今日の夕方だったら時間が取れそうというので、会うことにした。本当はもう会わなくてもいいかな、とも思ったのだが、やっぱり会いたい人たちには会える時に会っておいた方がいいと思った。明日の卒業式を終えて、明後日から光ちゃんは京都に行く。もしかしたら、もう会うことはないかも知れない。だからこの時間は貴重である。 俺たちがいるのは新宿の駅ナカにある流行りの台湾スイーツのお店。普段こういうところには来ないから、やや落ち着かない。しかも俺は会社を早退したのでスーツである。場違い感がハンパじゃない。 光ちゃんと二人きりで会うのは、俺にとっては初めてだ。以前ドッグカフェでお茶をした時には桃がいた。「俺にとっては」と言ったのは、光ちゃんにとって桃はただの飼い犬なので、彼女は二人で会っているという認識だったはずである。それにしても随分昔のことみたいだ。まだ半年くらいしか経っていないのに。 「どう、新しい住まいは?」 「いやあ正直不安です、友達もいないし。でも京都の街は好き」 光ちゃんはタピオカミルクティーを美味しそうに飲んでいる。 「でも。自分で決めたことだから頑張らないと」 「流奈ちゃんは?少しは元気になった?」 「少しは。でもあんなに落ち込むなんて思いませんでした」 桃は流奈ちゃんの合格が分かった日に、亡くなったらしい。流奈ちゃんが、庭に出て近づくと、桃はうつ伏せになっていた。最初眠っているのかと思って近づいたら、呼吸をしていなかった。流奈ちゃんは、桃に合格したことを伝えに行こうとしたんだろう。考えるだけで胸が痛くなる。 「流奈ちゃん、観光とかツーリズムとか地域創生とか、そんな感じの学部だっけ?」 「みたいです。でもそんなに詳しく教えてもらったわけじゃないからあまり分からないです」 そうなのか。じゃあ一人で決めたのか。人間、相談できる大人が周りにいなくても自分で道を見つけられると証明したのだ。高校時代の俺よりずっと立派じゃないか。 一方光ちゃんは、京都にある大学の大学院を受けて合格した。国文学専攻。意外だったのは、それが今の大学とは違う専攻になるということだ。俺はそもそもの専攻も日本文学だと勝手に思い込んでいた。 「文学部って言ってたから、てっきりそうだと。巫女さんのバイトしてたし、弓道もやってたし、勝手に専攻も日本系だろうなあって」 「英文学でした。児童文学をやりたかったんです」 イメージと違いました?さりげない笑顔がやっぱり可愛い。 「だから研究計画を書くのにすごく苦労しました。ホントにギリギリでした。私、大学受験もそうだったし、いつもギリギリなんです」 卒業論文を提出してからの研究計画づくりと入試対策。合格が決まった後は京都の住居探し。全部決まるまで気分も落ち着かず、結局卒業旅行は三月に入ってから沖縄に行っただけだったらしい。 「もちろん楽しかったけれど、みんなで行った伊勢の方がもっと楽しかったです。あれが私の卒業旅行かな」 こんな言葉だけで気分が上がるんだから、どこまでも俺は単純である。 「お、嬉しいなあ。社交辞令でもそう言ってもらえるなんて」 「社交辞令じゃないですよ。桃と一緒に伊勢回れたんだから」 え?今さらっと何を言った? 「桃って?桃城のこと?」 「もう!桃太郎ですよね。うちの。うっかり桃!って呼ばないようにするの、結構大変だったんですよ」 驚いた、なんてものじゃない。つまり俺たちが九鬼姉妹に気づかれないようにしていたのは、まるっきり失敗だったってことじゃないか。万事上手くいったと思い込んでいた俺はとんだピエロである。 「いつから気づいてたの?」 「伊勢で最初に見たときからそうじゃないかな、とは思ってましたよ。私、霊感ある方なんです」 桃、いつかのお前の読みは的中だ。 「でもさすがに、勘だけだと確信は持てないでしょ。だって、犬が人間だよ」 店にいる人からしたらわけの分からない会話だろう。「犬が人間」の部分は、声を落として喋った。 「ええまあ。さすがにそれだけじゃ確信は持てなかったです」 「じゃあ、なんで」 んー、と光ちゃんは少し考えた後、 「秘密です」 といたずらっぽく笑う。 「光ちゃん、ズルい」 「隠す方が悪いんです」 声のトーンが変わって、笑顔も消えている。ドキっとした。 「私だってみんなみたいに桃と話がしたかったし、お礼を言いたいことだってあったんですから」 避難するような眼差しに、俺は言葉に詰まってしまう。でも光ちゃんもそこで話すのをやめた。その目が俺が話すターンだと言っている。言い分があるなら言え、とでも言うように。そんなものあるわけない。 「じゃあ、とにかく気づいていたのに、気づかないふりしてたってことか」 「たぶん桃がそうして欲しかったんですよね。私たちにとっては、あくまでただの飼い犬でいたいって。そうだとしたら、私たちは桃の意思を尊重しないとダメじゃないですか。流奈がルール違反ですよ。結局、私だけ仲間外れみたい」 声は大きくないが、珍しく感情的になっているのが分かる。怒っているようでもあるし、悲しそうでもある。ああ、光ちゃんは全部知ってたんだな。桃、俺はやっぱりダメなやつだよ。お前の秘密を守れなかったばかりか、最後に光ちゃんを悲しませてしまった。 けれど、彼女は感情が爆発する少し手前でとどまった。大人だ。 「だから私も頑張らないと。桃に恥ずかしくないように。あと流奈に負けないように」 「強いなあ」 俺は今心からそう思っている。 光ちゃんは、それから詩みたいなものを諳んじた。 この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ   なんだろうコレ。すごく耳に残る。特に最後のフレーズ。 「今の何?詩?」 「昔の中国の歌です。別れをテーマにした」 「訳が素敵だ。光ちゃんの訳?」 俺が真面目な顔をして聞いたからか、光ちゃんは吹き出した。 「すみません」 それからもう一度こっちを向いて 「井伏鱒二ですよ。名訳でしょう?」 「好きだ」 「良かったです」 「光ちゃんが」 「え?」 光ちゃんの目が大きく見開かれた。伊勢で、ツクヨミの話をした時も、こんなには驚いていなかった気がする。大きくて綺麗な目は、桃の目に似ている。 「光ちゃんが好きだ」 一度で伝わっただろうけど、もう一回言いたかった。返事はなかった。困ったような顔で黙り込んでいる。俺が何か喋らなくてはいけないのだろうか。今は光ちゃんが喋るターンだと思うけど。少しして「遅いよ」とつぶやいたように見えた。けどこれは都合の良い錯覚かも知れなかった。それ以上は何も言わない。 俺は左腕の時計を見て時間を確認する。時計を見るついでに、蛇型の痣も目に入った。最初は嫌でたまらなかったがこの痣だが、今は良い思い出になった。 「そろそろ行こうか。今日家族で夕飯でしょ」 「そうですね。家に帰る前に、バイトをしていた神社に挨拶に行かないと。その時にお酒とお菓子を受け取ることになっているので」 すでに暗くなっていた。新宿駅改札口に向かう。彼女は小田急線、俺はJR山手線。 「さっきの保留でいいですか」 「ん?」 「お返事です」 「あ、うん、もちろん」 「嬉しかったです。ありがとうございます」 光ちゃんはとびきり素敵な笑顔を残して改札の向こうに消えていった。やっぱりズルイなあと思った。 原宿駅から家に向かう途中、五分咲きくらいの桜が見えた。陽が落ちると、まだまだ肌寒い。風が吹くと凍える。夜に浮かぶ白い桜の花びらは、雪のようにも見える。二ヶ月前、桃と最後に散歩した雪の夜を思い出した。空を見上げると、今夜はおぼろ月夜だった。 俺は、覚えたばかりのフレーズをつぶやいてみる。 さよならだけが人生だ 泣かなかった。だけどもう少しで泣きそうだ。 あと一週間ちょっとで新年度だ。その頃には桜も満開になっているだろう。新年度になる前に髪切りに行こう。新年度になったら、あの怪しい宮司がいる神社のカフェに行ってみよう。いつぞや勧められた日本酒も飲んでみたい。ゴールデンウィークになったらどこか旅行に行こう。できれば日本神話にゆかりがあるところがいい。じいちゃんがいる秋田の由利本荘にもそういうとこあるんだろうか。調べてみよう。それから今年こそちゃんとペットを飼うことを検討しよう。でも今日は帰ったらすぐ熱い湯船に浸かり、冷えた身体を温めて早く寝よう。そんなことを考えながら帰宅した。
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