梅香る頃

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あの梅の木に纏わる話  背中にじんわりと熱を感じて仙次(せんじ)は薄っぺらい布団の中でため息をついた。仕事を終え寝入ったのはつい数刻前のこと、まだ眠りの浅いうちだったせいで人の気配に目が覚めたようだった。 「空蝉(うつせみ)」  他の者を起こさぬよう背中越しに小声で名を呼ぶと、(うなじ)に冷たいものが触れて首をすくめる。起き上がって見下ろすと悪戯の見つかった子供のような顔で冷えた手を振って仙次を見上げていた。障子は朝を透かして、明るい中で見る化粧を落としたその顔は昔から見慣れたもの、子供の頃のそれとさほど変わりはなかった。 「ここに来るのはやめろと言ってるだろ」 「寒いんだ」 「だからって……」  部屋には仙次の他にも数人が眠っている。ここは桜坂の使用人の部屋であるから当然のことではあるが。  空蝉は人差し指を自分の唇に当てると、反対の手で仙次の腕を引いた。腕を引かれるままに布団に倒れると、ガラス玉のように色素の薄い瞳がすぐ目の前にあった。 「うるさくするとみんなが起きるぞ。困るだろ」 「誰のせいだ」 「俺だ」  悪びれもなく笑った空蝉に、寝返りを打って背を向ける。忍び笑いが聞こえて仙次は再びため息をついた。  こうして桜坂の男衆である仙次の布団に空蝉が忍び込んでくるのはもう何度目か、もはや思い出せぬほどのことだった。 「何があった」  賑やかなお囃子や嬌声が溢れる夜とは打って変わり、全てのものがまだ眠りにつく娼館は驚くほどに静かだった。部屋の中は寝息やら鼾やらしか聞こえてこない。使用人の部屋らしくただ雑魚寝するためだけの飾り気のない部屋に於いて、鮮やかな朱色の着物を纏う空蝉は、迷い込んだ金魚のようだった。  二人が出会ったのは年端もいかぬ子供の頃だ。同じ年頃で、この桜坂に流れ着いたのも同じ頃。そして何より二人に共通していたのは生まれがこの花街だということだった。  仙次の母はこの花街の花魁だった。それが通いの髪結と通じて仙次は産まれた。そして両親は手に手を取って逃げたのである。産まれたばかりの仙次を置いて。 「お前は店の男衆として働け」  桜坂の主人は五つになった仙次にそう言った。そして同じように訳もわからず連れてこられた空蝉ーーー当時はその名ではなかったがーーーは、商品としての名を与えられたのだった。二人は同じ境遇でありながら、全く違う道を歩むこととなった。 「何かあったんだろう」  背中で空蝉が身動ぎする。自分では決して手にすることのない上等な着物が音を立てる。 「身請けが決まった」 「……そうか」  背中にとん、と何かが触れる。鳥でも止まったのかと思うほど軽い感触でしかない。  刻々と明るさを増していく朝の中で二人は暫し動かなかったが、一瞬背中がすうとしたかと思うと小さな音を立てて空蝉は部屋から出て行った。背中がやけに寒く、布団を被り直す。不意に触れたそこが濡れていた気がしたが、気の所為であったかと思うほど一瞬の間に乾いていたのだった。 「今日、客を取る」  いつものように布団に潜り込んできた空蝉がそう言ったのは何年前のことだったか、すでに覚えていない。疲れ果てて泥のように眠っていた仙次は、それでも目を覚ましたのだった。着物を掴む小さな手が震えているのを背中に感じた。  その時初めて仙次は自分と空蝉の間には逃れようのない隔たりがあるのだと知った。同じ年頃で、同じ頃にこの店に辿り着き、同じ屋根の下に暮らしていても二人は全く別の存在なのだ。 「……そうか」  他にかける言葉を知らない仙次は、ただ諒解するしかなかった。空蝉が何を求めてここに来たのかも分からない。どうするのが正解かも分からない。ただいつもなら早く部屋に戻れと急かすのだけれど、そのときはそう言うことはできなかった。  そうして迎えたその夜、綺麗に髪を結い上げ、化粧を施し、いつもより高価な着物を纏った空蝉を仙次は見送った。その客は桜坂でも上等の部類で、気っ風のいい壮年の商家の男だったし、初めてがその客であったなら運のいい方だったろう。男衆にも気さくに声をかける気の良い男だったから、仙次でもそう思った。  それが空蝉のことでなかったならば。  その奥で何が行われているのか知っている仙次には、襖の前に茫然と立ちつくす己の感情をなんと呼べばいいのか分からなかった。 「仙次!」  庭の方から呼ばわれて仙次は食料の荷出しをしていた手を止めた。その場を他に任せて勝手口から声の方へと向かう。  桜坂は元は小さな茶屋だったのを拡げていったもので、複雑な形をしている。継ぎ足しては繋げていったため、そこかしこに箱庭のような大小様々な空間ができていた。その中でも元からある一等大きな庭に、女将が庭師らしい年配の男と一緒に立っていた。 「これから梅の木の剪定をするんだが、あいにく腰を悪くしたそうでね、手伝ってやっとくれ」  申し訳なさそうな顔をした男の横で、たっぷりとした腰に手を当てて不機嫌な顔を隠そうともせず女将は言った。昔はきりりとした美人だったそうだが、今はそのきつめの部分だけが残って常にこんな様子だったので、今さら気にすることもなかった。 「分かりました」 「頼んだよ」  言い残して去って行く女将を見送って、仙次は梅の木を見上げた。背は低いながら立派な幹に枝が四方へと伸びている。脚立に上がり庭師に言われるまま鋏で枝を切っていくと、やがて作業は終了した。 「今年も見事に咲くのだろうねえ」 「そうだな」  桜坂はその名のとおり多くの桜が植っているが、一番古くからあるのはこの梅の木だった。背は低いが幹は太く、毎年鮮やかに花を咲かせてあたりには梅の香が立ち込める。それは仙次にとって記憶を呼び覚ます香りだった。 「梅の咲く頃には……」  呟いた声は庭師に届かなかったようで、それじゃあとだけ言って裏戸から出て行った。残された仙次は一人、梅の木を見上げていた。
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