梅香る頃

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 一晩中詰めていた仙次は、朝方も皆が出払う頃に床についた。店の中は忙しく人の行き交う音がしていたが、長年勤めている仙次にとってはいつものこと、外からの鳥の鳴き声を拾って微睡んでいた。するりと戸の開く音がして瞬時に覚醒する。振り向く間も無く背中に熱がこもった。 「聞いたか」 「……何を」    ふっと笑う声がしてから「決まってる」と空蝉は言った。 「店を出る日が決まった」 「そうか」 「梅の咲くのには……間に合わないなあ」  仙次は静かに、しかし大きく息を吐くと目を閉じた。そして目を開けると布団の中でくるりと向き直る。もはや客を取らない空蝉は、薄い浴衣だった。淡く今にも消え入りそうに儚い。 「約束を覚えているか」 「……うん」 「もうすぐ花の時期だ」 「うん」  解けた黒髪をそっとかき上げてその瞳を覗き込む。深い深い夜の色をしたそれを、仙次はどれほど見てきたかしれない。今もまた溢れそうに濡れた瞳は、はたと仙次を見つめている。 「この店を出て行くことが決まったなら」  瞬きをすればすぐさま溢れてしまうだろう涙の膜が朝の光に煌めいて美しかった。 「俺はお前を攫って逃げる」  言葉を切ると、部屋の中はしんと静まった。朝の喧騒が遠くに聞こえる。仙次はただ空蝉の呼吸音を聞いていた。 「お前が店を出る前の夜、俺は梅の下でお前を待つ」 「……うん」  空蝉が仙次の体に額を寄せる。薄い生地がじんわりと湿った。しばらく動かないまま鳥の声を聞いていた。 「仙次さん」  戸を開けると背を向けていた少年が振り返る。 「壮介」  今いる男衆の中では一番若い少年は、仙次が部屋を出るのを待っていたようだった。まだ十をいくつか過ぎただけの歳だったが、寡黙で、しかしよく気がつくので店でも重宝がられていた。 「悪いな」 「いえ」  言葉少なに答えた壮介は多分、空蝉がこの部屋に入ったのを見て戸の前で待っていたのだろう。本当に気のつく子供だった。  いつになく何か言いたげな壮介に、仙次は微苦笑を漏らした。 「聞こえたか」 「……はい」  不服そうにも不安そうにも見える顔で仙次を見上げてくる。壮介もまたどこぞに捨てられていたのを桜坂の主人に拾われていた。この店に於いてそのような出自は然程珍しいものではなかった。 「店を出るんですか」 「ああ」 「逃げられるとは思えません」 「俺の両親は」  もはや顔も思い出せぬ両親。その最期。 「結局、捕まって母親の方は連れ戻されたらしい。男の方は廃業だ。当然だろうが」 「自分は大丈夫だと?」 「どうだろうな……壮介」  仙次が名前を呼ぶと、俯いていた少年は戸に預けていた背を離し姿勢を正した。 「お前が一番大事なものはなんだ」 「わかりません」 「そうか……恩あるこの店を出ようとする俺を裏切りだと思うか」  答えにくそうに口籠る壮介の肩に手を乗せる。 「もしもお前に何かとても大事なものができて、それがこの店にいては守れないのだとしたら迷うことなくここを出ろ」  連れ戻された母親は、しばらくして死んだ。客に移された病が元だったという。父親は花街への出入りが禁じられ、仕事もなくなって食うに食えなくなって、やはり死んだらしい。勿論全て伝聞でしか知らないことだ。だから彼らの人生に悔いがなかったのか、それとも後悔の中死んでいったのかも知らない。 「後悔だけは残すなよ」 「仙次さんは、ここを出ることは後悔しないんですか」 「しない」  複雑そうな顔をした壮介の肩を、仙次は微笑って叩いた。 「もしもどちらかが店を出ることになったら」  背中に感じる体温に話しかける。湯を浴びてきたらしい濡れ髪が、仙次の首の裏を濡らした。 「その時は一緒に出よう」 「どうやって」 「最低限のものだけ持って、自分の足で出て行くんだ」  触れそうで触れない手は二人の間に、いつもならば遠慮なく伸ばされるそれは今、迷子のように彷徨っている。触ることを恐れるように。  仙次はその細い腕を掴んで強く引き寄せた。 「どうせすぐに見つかってしまう」 「夜陰に紛れてこっそりと抜け出す。みんなが寝静まった頃に」 「夜に?」 「あの梅の下で落ち合おう。子供の頃、初めてお前と会った時と同じように」 「でも俺は、もうあの時とは違う……」  昨日の夜と同じように、掴んだ細い手が震えている。初めての客が待つ部屋へと向かう空蝉のその手を離した瞬間を、仙次は一生忘れないだろう。 「今の俺じゃあお前を連れて逃げられないから」  その時まで待っててくれ。  のちに仙次と空蝉が落ち合った梅は、男娼と男衆が逃げた木として桜坂では不吉なものとされた。闇夜に乗じて逃げた二人の行方を知る者は誰一人としていない。  これはその桜坂に伝わる梅の木に纏わる話。
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