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戯作者の遺作
「客相手に夢なんてみちゃいけないよ」
甘ったるい香のにおいが充満している。部屋の中は吐き出した煙で白くぼやけており息苦しい。それでも狭い金魚鉢のような見世の座敷で、極彩色の金魚たちは優雅に漂っている。
「けれどどうせ現実見たって終わりは同じじゃないかえ?」
百合の着物をきた男がその着物の清楚さとは程遠いけだるさで問う。それには一段と濃い煙を吐き出した男が答えた。
「そうさ。結局結果は同じこと。夢を見たって現実を見たって先にあるのは何もないところ。だから夢と現を弄ぶのさァ」
がらりと無粋な音がして戸が開く。そこから女将が顔を出した。
「松濤、バカなこと言ってないで支度しな。客だよ。七坂」
話を聞くでもなく、ただ黙って座っていた七坂と呼ばれた一際瑞々しい男が顔を上げた。その睫毛は白い頬に影を落とすほどに長い。
「お得意様だよ。めかしこんできな」
七坂はまるでどこかの姫君のように優雅に微笑むと音もなく立ちあがる。それから男らの間を泳ぐように進むと、口角を僅かに上げ背後にちらりと視線を送ってから出て行った。
「松濤、さっさとしな」
「お客は誰だ」
松濤は手に持っていた煙管を盆にかんと打ちつける。
「先生だよ」
それだけ言うと、女将は戸を閉めた。
「今晩は」
膝をつき、畳に散らばった紙に一心に筆を走らせる男は顔を上げることなく言った。松濤はそれには返さずに窓枠にもたれて外を見る。
「あの男が来ていたな」
外に気をとられていた視線を部屋に戻すと、男が松濤を見ていた。痩せて血色の悪いその顔の中で、目だけがぎらぎらしている。
「座敷に来てまで筆を持つ客はあんたぐらいだろうなァ先生」
先生と呼ばれた男は筆を矢立てに収めると、散らばっていた紙を寄せ集める。そのまま口を開いた。
「またあの男が来ていたろう。呼ばれたのはまた七坂か」
「うるせェなァ」
松濤が男の背中を蹴ると、紙がまた座敷に舞う。その中の一枚を手に取ると松濤はざっと目を通す。
「おとこはやがてしにたまひて、か」
口にして嘲笑う。
「猿真似が売れるもんかよ、売れない戯作者のせんせェさま」
先生と呼ばれた男が振り向きじとりとした目で松濤を見た。
「なあ松濤」
器用にその文字の書かれた紙を鶴に折っていた松濤が男を見下す。男はそれを下から受ける。
「最愛の男を盗られるのはどんな気持ちだ?憎いかい?殺したいかい?それは盗った男が?それとも心を他に移した男がか?」
松濤は折った鶴を窓枠にそっと載せる。
「憎くはないさ」
もう一羽をその隣に並べる。
「殺したくもない」
松濤は寄り添う鶴を目を細めて見やる。男はそれらの何も逃さぬよう注意深く観ている。
「ただ、こいしいだけ」
今は七坂に注がれているであろう優しげな眼差しが、あるかなしかの笑みが、深い声色が、恋しいだけ。かつてあれほど松濤を慈しんだあの武骨な手が恋しいのだ。別の若い男に心をうつしたあの男が。
「無様だな」
男は紙を集めるのを止め、それらを踏まないように松濤に近づく。それから隙を窺うような、観察するような顔で松濤を抱いた。
「あの男はお前を忘れた」
「お前よりも若く美しい男を選んだ」
「もう二度とお前の名を呼ぶことはない」
男は松濤を抱きながら感情的になることもなく淡々と告げる。ただその目の奥だけが煉獄の炎のように燃えている。
「あの男はもうお前を好いていない。お前を選ぶのは」
言葉とは裏腹に熱い息が、松濤の項を湿らせた。
「俺だけだ」
畳に爪を立てる。
「なら一緒に、
死んでくれるかえ」
松濤は起き上がり裸のまま着物を手に取ると、その帯から小刀を取り出す。そして男に手渡した。男がそれを受け取る。
「これが結末か」
「なんともお粗末なおわりじゃァないか」
「けれど俺ほどお前に焦がれた男はいない」
松濤はそれには答えずに目を閉じる。男はそれを上から見ている。
「これが俺の唯一の傑作にして」
喉元に冷たい刃先がぶつかる。
「遺作だ」
とある名もなき戯作者が遺したのは、恋焦がれて狂い死にする売れない戯作者の話だった。
しかし、二人分の血を吸って赤く染まるそのまごうことなき傑作を、読んだものは誰もいなかった。
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