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代謝
一
伸びをして手をかざすと、整えられた爪の先が白く朝陽を透した。昨日よりもまた伸びている。手を下ろして振り返ると、男はまだ寝息を立てていた。遠くが僅かに騒がしい。部屋には気怠い静寂だけが漂っている。
この男に初めて会ったのは、もう五年も前のことだ。まだ座敷にも上がっていない頃、男は自分の付いていた姐さんの上客だった。呉服屋の跡取りで大層な羽振りであったが、それというだけではなく、男は姐さんのいい人だった。あたりが柔らかく見てくれもそれなりであったから、他の姐さん方の評判もよくかなり遊んでいたようだったが。
それでも姐さんーー松濤は男を好いていた。
「騒がしいね」
「目が覚めてしまわれましたか」
すぐ近くで襖を開け閉てする高い音が聞こえていた。男が「何かあったかな」と呟く。その口元の肉が少し垂れている。五年前は精悍だった顔つきも、少しずつ老い始めている。全てのものに時は等しく降り注ぐ。
「ああ、夢の時ももう終わりか」
引き寄せられて、なるべく懐の中に潜り込むように額を寄せた。
「また会いに来てくださいまし」
「もちろんだとも」
かわいい君のために、と男は言った。
「松濤が客に殺されたよ」
男を見送ってから部屋に戻り結い上げていた髪を解いていると、同じように客を送り出したらしい姐さんが隣に座った。
「先生ですか」
「そのようさね。座敷は酷い有様で、地獄の血の池みたいだってサァ」
「掃除が大変だ」
それだけかえ、と眉を寄せた姐さんに構わず薄く施していた化粧を落とす。それ以上何も言わずにいると興醒めしたように舌打ちし、七坂の傍を離れると他の誰かに話し始めた。
「聞いたかい松濤の話」
「聞いたよゥ先生にやられたんだってね」
「あの男、やたらと松濤に執着していたからねェ。しかも陰気な目つきでサ。何かやらかすんじゃないかって思ってたんだよ」
「全くだ。それで自分も死んだんだろう」
「店にとっちゃいい迷惑だよ」
それから話は店の主人の愚痴になり、女将の悪口へと変わっていった。それを聞くともなしに聞きながら化粧を落とし終えると、豪奢な着物を脱いだ。
女のような柳腰に、白い肌。その細い肩にかかるのは艶やかな黒い髪。桜坂で一番美しい者。
傍で話していた姐さんらが言葉を止めた。こちらに目を奪われているのが視界に入る。普段着に着替えると、風呂に入るために部屋を出た。
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