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三
松濤は、七坂が初めてついた姐さんだった。特に優しいわけではない、冷たいわけでもない。多分、興味がなかったのだろう。松濤はそういう人だった。少なくとも七坂にとっては。
「松濤が、亡くなったそうだね」
かの一件から数日後のこと、かつて松濤と深い仲にありながら、不義理にもその傍付きであった年若い七坂に心を移した男は言った。七坂は切子に酒を注ぐ。
「ええ」
「客に、刺されたのだったね」
「はい」
「馴染みの客だったのだろうか」
男が切子を持った手を傾けると、七坂はさらに酒を注ぐ。男がそれを差し出したので、七坂は受け取って口に含んだ。上等で舌触りが滑らかなそれはつるつると進む。
「そうですね」
七坂が一言返すと、男は僅かに非難するように眉を寄せた。
「君は元々松濤の元にいなかったかい」
「そうです」
続く言葉を待っていた男は、やがて諦めたように再び口を開く。言外に皮肉を滲ませながら。
「ここでの刃傷沙汰は日常茶飯なのかな」
「そんなことは」
「やくざの男が店のものを切ったこともあったらしいね」
「ええ。切られた者はその場で亡くなりました」
「怖いことだ」
姐さんをかばって切られた男衆は、その腕の中で死んでいった。そして切った男は驚くほどの値で姐さんを身請けし、挙げ句の果てには己が命で殺めたという。それほどの執着心だった。
「君にも、そんな客がいるのだろうか」
「そんな、とは」
「君を傷つけようとするような客だよ」
先ほどの男の言葉ではないが、桜坂では過去に何度も刃傷沙汰が起きている。当然、七坂も何度か殺されかけたことがあった。一緒に死のうと刀を向けられたこともあるし、七坂に入れ上げた旦那の奥方から酸を掛けられそうになったこともある。
しかし七坂はそれとは言わずに静かに頷いた。
「そうですね」
「ああ、七坂」
男は持っていた切子の杯を置くと、七坂の腕をつかんだ。ぐいと引き寄せる。
「君を誰かに奪われるなど考えただけでも恐ろしい。君は美しいから、やっかむ者も多いだろう。この場所はあまりにも君には危険すぎる」
細い肩を抱く男の腕は、手のひらの蝶をそうっと包むような丁寧さ。そして耳元でそっと囁く。
「君を身請けしたい」
体を離すと、男は宥めすかすように言った。
「私には妻も子もあるが、君に不自由はさせない。郊外の静かな場所に屋敷を用意させる。必要なものはすべて揃えてあげよう。そうして君はなんの憂いもなく暮らせばいい。今まで通り私にかわいがらせておくれ」
言い終わると男は、傷ひとつない珠のように美しい頬に手のひらを添わせ愛撫する。そうして引き寄せようとした時に、男は七坂の変化に気がついた。
七坂は笑っていた。
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