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渇望
自分の手を掴んで脇目も振らず走っている背中を、意外な思いで見つめていた。まさかこの男がここまでの行動を起こすとは。
足元は悪く、月明かりしかない暗闇で、さらには店に出ていたそのままの着物に誰のものとも知れない履き物であったから余計に走りにくい。おまけに羽織っていた打掛は置いてきてしまっていたから薄らと寒かった。
一体どこまでいくつもりなのだろうか。
自分の手を掴む左手とは別に、右手には刃物が握られている。あれは包丁だ。先ほど間近に見た刃物は白く光り美しかった。
「近づけば殺す」
興奮に上擦る声は、包丁を持つ手同様に震えていた。ああ、もう少しその震えが大きくなれば首筋を通る太い血脈に当たってしまうだろうに。
しかし男は包丁を突きつけたままじりじりと退がりながら店を出ると「逃げる」と一言、走り出した。
それ以来、言葉もなくただ走り続けている。
こんなに走ったのは何年ぶりのことだろうか。ここ数年は長く歩くことだってそうはなかった。いい加減、息が切れている。足は縺れ今しも転んで倒れそうだ。しかし腕を掴む手はそんなことの一切を顧みず、ただただ頑迷に強い力で引き続けている。こういうところがこの男の無粋たる所以なのだと思う。
正直に言って、逃げ切れるとは思えなかった。第一に目立ち過ぎる。そもそもあれ程派手に店を飛び出したのだから追っ手はすぐにつくだろう。追いつかれるのも時間の問題だ。すでに冷静な思考など、前を走るこの男には望めないだろう。
そうであれば、この男は自分の願いを叶えてくれるだろうか。
背後から複数の足音が聞こえてくるような気がした。男にそれが届いているだろうか。
果たしてこれが正解なのかどうか、七坂にはまだ分からない。
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