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「俺と一緒に逃げてくれ」
思い詰めたような顔で三郎は言った。沈み込む豪奢な布団の上に手を突いて、しどけなく座る七坂を見上げている。はてこの男が店を訪れたのはいつぶりだったかと考えていた七坂は、しかし男が何を言ったのかはっきりと理解していた。
「御冗談を」
勿論、七坂は男が冗談を言っているわけではないことも分かっている。かと言って本気で答えるわけにもいかないのである。ここは桜坂、客が男を買うための店であるのだから。
「俺は本気だ」
「本気とは」
「お前をここから助け出したい」
真剣な面持ちの三郎を前にして七坂は笑った。
「おかしいか」
三郎が気分を害したように硬い声を出す。布団の上に置いていた手は力んで、漣めく水面のように布を撓めている。
「とんでもございませぬ」
「ならばなぜ笑う。俺は本気だ」
「左様でございますか」
ならば、と七坂はこの店で一番美しい微笑を浮かべたまま三郎を見下ろした。
「お断り致します」
その答えを三郎は予想もしていなかったらしい。驚愕に目を瞠っている。なぜそこまで驚くのかと、そちらの方が七坂には不思議だった。
「なぜだ」
「何故も何も、私はこの店の商品で御座います。対価を支払わずに持ち出せばそれは窃盗です」
「しかしお前は身請けの話を断ったのだろう」
「よくご存知で」
「それはお前が他に好いた男がいるからではないのか」
三郎の言葉に七坂は今度こそ声を出して笑った。それは全くの見当違いが可笑しかったからだ。
「よもやそれが貴方だと?」
あくまでも大真面目な表情を崩さずに三郎は頷いた。
なんと愚かなのだろうと七坂は思う。この店に於いて惚れたのなんのは言葉遊びに過ぎない。それはお互いが諒解の元であり、本気にすればそれは本気にした方が無粋なだけ。
この手のことを言い出す男は今までも何人もいたが、身請けどころか金も払わず手に入れようなどと烏滸がましいにも程がある。
「私に好いた人がいるかどうか、それは今どうでもよいこと。問題なのは私に貴方と共に此処を出る意思があるか否かですが。……私にはすぐに潰されてしまう虫ほどの価値しかありませぬが、愚かな虫にも一分というものは御座います」
「それは」
「それを貴方に言わなければならぬ理由が御座いましょうか」
それは拒絶の言葉だった。
男が絶望したような顔で七坂を見る。
「今宵、私は貴方のもの。お好きになさいませ」
この店の中でならば。
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