渇望

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「君は近頃、若い娘の失踪が続いているのを知っているか」  男は美しい透明な酒杯(グラス)に満たした葡萄酒を飲み干した後、言った。その酒は男が持参したもので、まるで血を連想させるような濃い赤色がなんとも不吉だった。  結ってはいない髪はざっくりと切られ後ろに撫でつけられており、着物ではなく洋装をしている。七坂はその衣服を何と呼ぶのかは知らなかったが、背は高く長い手足は、近頃増え始めた他国のやたら大きな人間らにも見劣りせぬ容姿だった。 「はて、このような場所にありますと世間様のことにはとんと疎く」 「おや君はこの間、国営劇場でかかった歌劇の物語(ストーリー)を知っていたじゃないか」 「たまたまお客様から教えていただいただけで」 「それにしたってあれ程議論(ディベート)できるものか」 「買い被りに御座いますよ」  男は面白そうに七坂を見ると実際、「君は実に面白いな」と言って葡萄酒を飲み干した。 「教養のある者との会話は愉快なものだ」 「それこそ買い被りでしょう。私など教養とは無縁で御座います」 「くだらない知識をひけらかすつまらない人間に比べれば実に知的(スマート)だ」 「ひけらかす程の知識もありませぬ故」 「頭でっかちの人間というのは全く手に負えないものだ。俺のようにね」  そう言って笑う男は名を三上といい、まだ三十代も半ばと若いながらも新政府の高官だという。外国語が堪能とかで留学経験もあるらしく、話題が豊富な男だった。ふらりとやってきては七坂を買っていく。 「それで、失踪というのは」 「ああ、立て続けにね若い娘が消えているんだよ。それが商家のだったりどこぞの農村の娘だったりと取り留めもなかったのだが」 「お探しになられていたのですか」 「あまりに取り留めがないものだから別の事件であろうと、まあ手がかりもなかったのだが。それが近頃は政府の役人の子女が、そしてつづけて華族の令嬢が消えたものだから動かざるを得なくなり、ようやく重い腰をあげたようだ」  三上が酒瓶を傾けて七坂の酒杯に注ぐ。口に含むと舌の上に渋みが残る。 「誰も見つかっていないのですか」 「一人だけ手脚の切断されたのが見つかったようだ。それは無残な様子だったらしい。可哀想なことだ」  あっさりと言って三上は首元に指を入れるとぐいと引いて襟元を緩めた。 「恐ろしいことですね」 「全くだ。君も気をつけたまえよ。消えたのは皆、若く見目の良い」 「娘、でしょう。私は条件に当てはまりません」 「若く美しいことは否定しないか」  それには答えず七坂は艶然と微笑む。行儀悪く胡座をかいた三上は足の上に肘をついて下から七坂を覗き込む。 「君は自分をよく理解している」 「さて」 「君のそういうところが気に入っている」 「嬉しゅう御座います」  酒杯をテーブルに置いた三上が唐突に七坂の腕を引いた。体勢が崩れて間近に見上げた瞳はどこまでも深い闇色をしている。 「身請けの話を蹴ったらしいな」 「お耳が早いこと」 「よかったよ蹴ってくれて。君と話ができなくなるのも残念だがそれよりも」  深淵を覗き込むように。 「誰かに囲われて朽ちていくよりも、美しいまま時間を止める方がよほど君に似合っている」  後頭部に畳の冷たい温度を感じながら、七坂は深い快楽に落ちていく。
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