渇望

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「三郎を振ったんだって?」  風呂上がりに部屋で微睡んでいた七坂は、その声に覚醒した。眠るつもりはなかったがいつのまにかうとうととしていたらしい。持っていた読本が膝から落ちていた。思いの外すぐそばにあった砂貝の顔にはなんとも言われぬ表情が浮かんでいる。七坂は不快感に眉を寄せた。本を拾うフリで身体を離す。 「誰に聞いた」 「本人にだよう。えらい落ち込みようだったからねえ。そこいらの川に身でも投げそうな顔でね」 「そう」  七坂の気のない返事に砂貝が一瞬、苛立ちを見せる。が、すぐに消える。取り繕うように、 「可哀想じゃないか死んじまったら」 「川に落ちたらお前が拾えばいい。手に入るんじゃないか」  ああ、今のは意地が悪かったと思ったが口から出てしまったものはもう取り戻せはしない。案の定、砂貝はきりと目尻を釣り上げると七坂の襟を掴んだ。 「あんたは人の気持ちってのがないのかい!」  面倒なことだと思いつつ、襟を掴まれた手をそのままに砂貝を見上げた。細いわけではないが腫れたような分厚い瞼のせいでどうにも野暮ったく見える。何が悪いわけでもないが、どことなく垢抜けないのが砂貝という男だった。こうして七坂と並ぶとその差は歴然として残酷なほどだ。 「悪かった」  七坂の謝罪に砂貝の手が緩んだ。 「……あんた身請けの話も断ったんだろう」 「ああ」 「四島の旦那だろう。あの旦那はあんたに首ったけだし、大そうなお大尽で願ってもない話じゃないさ」 「俺は身請けされる気はない」  怪訝そうな顔をした砂貝に七坂はため息をついた。誰にも理解されないであろうその理由を、いちいち説明するのは面倒だった。 「俺の望みはあの人には叶えられない」 「なんだいそりゃあ」  しばらく不服そうな顔をしていた砂貝が閃いたとばかりに膝を打つと、にやにやと下卑た笑いを見せる。 「なんだそういうことかい」 「何が」 「あんたも可愛いところがあるじゃないか」  きっと愚にもつかぬことを言い出すのだろうと話し始めたこと自体を後悔し始めていた七坂に、砂貝は擦り寄ってきた。ああ鬱陶しい。 「好いた男がいるんだろう?」  なんて愚かなのだろうと七坂は心の裡に砂貝を蔑んだ。己の価値観で相手を図り、ばかりかそれを相手に押し付ける。なんと浅薄なのだろうか。  とても意思の疎通が図れるとは思えないと黙っている七坂に、砂貝は一人納得して一人語りを続ける。 「あんたのお得意様はたくさんいるけどねえ、三郎でも四島の旦那でもないとしたら……あれか、最近よく顔を見るじゃないか。いけ好かない、ほら役人のさ」 「三上のことか」 「そうそう、あの気取った男だよう。こっちを見下げて本当にやな感じだよ」  思い切り顔を歪めた砂貝は吐き出すように三上の悪口を言った。七坂はそれを聞き流しながらどうやってこの場を切り上げるか考えていた。 「あんたも引く手数多のわりにあんな男を選ぶなんてねえ。お偉いさんなんだろう、新政府の。身請けもしてくれないような男選んじまうなんてあんたも不幸だねえ」 「誰からも選んでもらえないよりマシだ」  はっきりと当てつけた七坂に、砂貝は今度こそ怒りと羞恥をあらわにした。 「あんたなんか……!」  それ以上言葉が続かないようで、はくはくと口を動かす姿は陸に上げられた魚のようだと七坂は思う。殴られるかと思ったが、そこまで理性は失っていないようで、跳ねるように立ち上がると部屋を出ていった。  話す必要のないことまで喋ってしまったと、ため息をつく。
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